*第五章 想い人と肌を重ねるということが意味すること
第三話
何かが頬を撫でていくように流れていくのを感じ、それまでやわらかな真綿の中に身を任せるようにしていたハノの意識が、ゆっくりと風を感じる方に向いていく。
ハノ……と、呼ばれる声が大きくなっていくようにその感覚は段々とはっきりとしていき、やがて薄く視界が開けていった。あれだけ熱かった体が嘘のように軽い。熱は引いたのだろうか。
開けた視界に映し出されたのは、穏やかに眠るライナーの寝顔。
ライナーが、傍にいる。幼い時のように寄り添って、同じ寝台で並んで眠っている。
「……ライナー?」
よく眠っているように見えるその顔に、どことなく違和感を覚えたハノは、それまでぼんやりとしていた意識を覚醒させ、跳ね起きる。しかしライナーは、眠ったままだ。
ライナーは兵士だった頃のクセで、熟睡があまりできないと言っていた。隣に眠っている者がいて、その者が目覚めれば、ともに起きてしまうほどに眠りが浅い。それはハノと出会った頃から変わらず、だからこそ、ハノが起きればライナーもともに起きるのが常だった。
なのに――――
「ライナー? ねえ、起きなよ……僕も起きた、よ……」
揺り起こそうと肩に触れ、ハノはその冷たさに思わず小さな悲鳴を上げた。氷のような冷たさが、先程から覚える違和感を現実だとハノに知らしめてくる。
嘘だ、そんなの嘘だ……うわ言のように呟きながらハノは掛布をめくり、意識をなくすほどに抱き合ったままの姿のライナーの体に触れた。
「ライナー、ねえ、起きて……起きてよ、ねえ……」
揺らしても、頬を打っても、ライナーは目を開けることはなかった。揺すられるままにグラグラと頼りなく体が揺れ、触れる肌は冷たいままだ。
この感覚を、ハノはよく知っている。自分の手の中でいくつも見てきた、大切な者たちの体温が消えてしまった亡骸の温度だ。
「嘘だよね、ライナー……嘘だよねぇ!!」
ハノの悲鳴じみた叫びが部屋中に響いても、ライナーが目覚めることはない。受け入れがたい現実を前に、ハノはあの時のような涙さえ出ない。ただ呆然と、もう自分の名を呼んでくれない彼を見つめるばかりだ。
その時ふと、部屋の扉が開く音がし、そちらを見やると、腕に漆黒のローブを手にしたロートが顔を覗かせていた。その表情は沈痛の面持ちで、ハノの呆然とする姿を見るなり、一層悲しげに歪んだ。
「……ハノ」
ゆっくりとハノが身を起こし、ライナーが横たわる寝台に近づいてきたロートは、手にしていたローブをそっとライナーの上にかけてやった。そして苦しげな声でハノを呼ぶと、そっとその肩を抱いてきた。
「すまない……私のせいだ……」
「……ロートの、せい?」
告げられた言葉の意味が、この状況が、ハノは何一つわからない。そのすべてが、ロートのせいだと言うのだろうか。
問詰めたいことがあるはずなのに、言葉が出てこない。喉の奥で突っかかり、ぎゅっと押し留められているかのようでもある。それが苦しくて痛くて、なんとしてでも声にして聞きたいのに、ひと言も出てこないのだ。
一体どうして――そう、ハノが困惑していると、ロートが肩からそっと背に腕を回し、抱きしめてきてさらに告げた。
「泣くがいいハノ。いまお前さんは、想い人の命と引き換えに
「想い人の、命、と、引き換え……? 僕、ライナー……殺した、の……?」
震える声で問うても、ロートはうつむいてハノを抱きしめたまま答えてくれない。それは言葉の否定なのか肯定なのか、ハノにはわからなかった。
わかっているのは――ライナーがもうこの世にいないと言うことだ。
「僕が……殺した……ライナー……殺し……」
「ハノ、落ち着いて。私がいまから話をしてや……」
ロートが背を撫でながら、うわ言を繰り返すハノを宥めようとしたのだがすでに遅く、ハノの視界は真っ黒に塗り潰されていく。そこに、ライナーの姿はない。
自分がライナーを求めたから、そのせいでライナーの命を奪ってしまったのではないか。何がきっかけであれ、ハノを抱いたことでライナーの体に異変が起こったことに間違いはないのではないだろうか。それはすべて、ハノのせいと、ハノが殺したのだと言えるのではないのだろうか――――
「僕がライナーを殺しちゃったんだ!! 僕が、ライナーを!!」
悲痛な声で叫ぶハノを、ロートは「違う、ちがうんだ、ハノ……」と、苦しげに顔を歪めて首を振って否定する。しかし衝撃で気が動転してしまっているハノの耳に届くはずもなく、ただただロートには抱き留められながら叫ぶばかりだ。
その声は、夏の始まりの朝の光の中に溶けることなく、いつまでも悲しげに屋敷中に響いていた。
ハノはそれから、三日三晩ライナーの亡骸の傍らで泣き叫んでいた。声が嗄れ、涙さえ枯れても、目覚めた時の裸のまま、ライナーの傍にいたのだ。
ライナーの亡骸は、ロートが密かに魔法をかけて傷まないようにしてはいるが、いつまでもこのままにしていいわけではないだろう。
つややかで美しかった薄緑のハノの髪は乱れてぼさぼさになり、目元は真っ赤に腫れ上がって痛々しいばかりの姿になっている。それでもハノはライナーの冷たい肌に触れては、はらはらと涙をこぼしていた。
そんな日々を過ごしていたある晩、部屋が昼間のように明るい光に満たされていることにハノは気付き、明るい方向を見やる。
「……満月だ」
光は大きな窓から射し込み、静かに降り注いでいる。その光景を見つめながら、ハノは幼い時のことを思い出していた。
「月には名前があるんだ」
そう、ライナーが教えてくれた夜があった。同じ寝台に横になっていたある晩、なかなか寝付けないハノに、ライナーはあまり知らない夜伽の話を聞かせてくれたことがあったのだ。
「そのなかでも、月が全くでない新月、真ん丸の月が出る満月の晩は、不思議なことが起こると言われているらしい」
そう言って、ライナーは新月の晩と満月の晩に起きると言われている不思議な話をしてくれた。
「新月の晩には闇の願いが叶い、満月の晩には光の願いが叶うんだそうだ」
そんな話をしながら、ライナーはハノの頭を撫で、頬に触れて優しい顔で微笑んでいた気がする。言葉の意味はわからなかったけれど、いつかライナーと満月を見上げ、光の願いとやらをかなえてもらおうと、幼かったハノは思っていたのだ。
月光は長く部屋の中に射し込み、ハノたちがいる寝台まで届く。そっと、眠ったままのライナーを包むように光が射しこんできて、いまにも起き上がりそうに見えた。だけどそんな奇跡なんて起きないことは、ハノにもわかっている。たとえ魔法であっても、死んだ者は蘇らないのだから。
「生きているライナーに、また会えたらいいのに……そしたらちゃんと、好きかどうか、聞けるのに……」
誰に言うでもなく呟いた言葉は、月明かりに包まれた寝台の上で静かに転がる。
ぼうっと月明かりが降り注ぐのを眺めていると、起きはしないとわかっている奇跡を願ってしまう。そうしてまたハノは赤い目に涙を浮かべ、はらはらとライナーの亡骸の上に振らせてしまう。泣いても泣いても、涙は枯れ果てる様子がない。泣いたところで、自分がライナーと共に果てることも叶わないのに。
「なんで僕、竜人なんだろう。好きな人を死なせてまでずっと生きていたくない……」
不老でほぼ不死の自分の生態が、こんなにも憎たらしく思ったことはない。きっとこの忌まわしい体のせいで、ライナーが死んでしまったに違いない。そう思うと、生きていること自体が申し訳なってくる。
そんな思いを吐露して泣きじゃくっていると、月光の当たらない影からぽつりと声がした。
「そういうことは、そいつの前では言うもんじゃないんじゃないかね、ハノ」
ハッとして顔をあげ暗がりに目を凝らすと、銀色の髪が月明かりの下に曝される。こちらを見つめている夜明け色の目は、悲しげに濡れていた。
ロートはハノのいる寝台の縁に腰かけ、泣き濡れているハノの頬を拭う。
「そんな悲しいことを、お前さんを愛してくれたライナーの前で言うもんじゃないよ」
「ロート……でも、僕のせいでライナーは死んじゃったのは間違いないんだよね?」
「そうと言えばそうなんだが……でもそれは、お前さんのせいではない。竜人の発情熱を治せるのは想い人の体液で、想い人の“熱”と呼ばれてるんだ。だがその役割は、人間にはあまりに重い役割なんだよ」
「だから……ライナーに責任重大って言ってたの?」
ハノの問いかけに、ロートは悲し気に微笑んで考え込み、そして「それも、あるんだ」と呟く。
「ハノの発情熱を冷ませられるのは、確かにライナーだけで、あいつしかお前さんを救えない。それも責任の一つ。あとは、命がけになる、ということでの重大さもあったんだよ」
ロートの言葉に、ハノは震えながら首を横に振り、撫でていたライナーの胸元の上で拳を握りしめる。爪が食い込む音がするほど強く、ハノは握りしめ、震えた。
「そんな……じゃあ、ライナーが死んじゃうのは、仕方なかったって言うの……? そんな……そんなのあんまりだ! やっぱり僕がライナーを殺したんだ! 僕がライナーを好きにならなければ良かったんだ!!」
震えるハノの拳に、ロートの手が重なる。包み込むように、なだめるように撫でられ、ハノは深く息を吸い、心を落ち着かせていく。
「お前さんだけがあいつを好きで、あいつが何も考えなしにお前さんを抱いたわけじゃない。そう、私は思ってるよ」
「……どういうこと?」
確かに抱かれている間、好きだとか愛しているだとか言われた気がするが、ライナーの死があまりに衝撃的すぎて記憶がおぼろだ。
濡れた赤い目でハノがロートを見つめて尋ねると、ロートはこの上なくやさしい顔をして微笑む。
「ライナーには悪いが、内情を話させてもらおうか」
そうロートが苦笑し、ライナーの方を見やる。その眼には慈愛が込められているようで、ハノは悲しみで痛む胸が撫でられていくようだった。
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