廃墟のキミ

Tusk

第1話 マユラ

 都心部の郊外に佇む、今やほとんど人の気配もない薄汚れた雑居ビル。

 その地下の一室で、得体の知れない者たちが密やかに会合を開いていた。


 カビ臭く埃っぽいコンクリートの廊下。

 その奥にある地下室からは、陰鬱な詩を読み上げる声が、かすかに響いている。




“── 私は明日も、此処に居る。


 シミだらけの汚らしい木製の壁と、軋みを上げる、不安定で冷たい床。


 古臭いこの家は、ただ居るたけで気が滅入る。


 だが、外に出れば曇り空。


肌にまとわりつく、重くじっとりとした空気。


 黒く煤けたコンクリートと、吹き抜ける風の嫌な音。



 私は明日も、此処に居る。


 だが、その前に夜が訪れる。


 私は暗がりを恐れて灯りをつけるが、ボンヤリとした薄汚い電球の灯は、私の心を照らしてはくれない。


 薄暗く、瞼を重くするばかり。


 ああ、私は今夜もまた、隣から聞こえる豚の悲鳴と咀嚼音に、悲痛な顔で耳を塞ぐことだろう。


 朝日を待てば、明日が来る。


 そしてまた、どんよりとした曇り空と、まとわりつく嫌な空気がやってくる。


 しかしそれは、穢らわしい夜闇より幾らかマシかもしれない。


 私は明日も、此処にいる。


 そのまた明日も、そのまた明日も。──”




「これが、獄中であの外道が書いた詩だそうです」


 詩を読み上げたのは、冷淡な雰囲気を漂わせる女の低い声。

 静かに読み終えると、彼女はギシリと音を立てるパイプ椅子に腰を下ろした。


「……ふん。さぞかし苦難の人生を歩んできたとでも言いたげな詩だな。くだらん」


「あの男は他にも幾つか詩を残しており、獄中で詩集を出版したそうです」


「ほう……。罪人風情が作家にでもなったつもりか? その穢れた経験から生み出されたものなど、ダニの糞ほどの価値もない」


「それでも、その詩集はある程度売れたと聞きます」


「ふんっ……! 聞いて呆れるな。人は、自分と異なる“異形”に興味を持ちたがる。その詩集を買った者の多くは、あの外道がどれほど人道を外れた存在なのか、その好奇心に駆られただけだ。

 ──どれほど辛い人生だったとしても、罪もない他人を── それも、無垢な少女を弄び、死に至らしめるなどという行為は、決して許されるものではない」


「……ごもっともです」


「どんな絶望に生きていようと、人間性を捨てず、真っ当に生きようとする者はいる。

 それができなかった時点で、どんな過去も言い訳にはならんのだ」


 女の言葉に応じたのは、野太く低い男の声。

 男は詩が記された資料を乱雑にテーブルへと放り投げ、吐き捨てるように言った。


「……下らん。実に、くだらん。死に値しない外道めが」






── 廃墟のキミ ──




 高度経済成長が終焉を迎え、社会の陰りが色濃くなりつつあった時代。

 片田舎に広がる工業団地は、黒い煤と煙を吐き出し、空も空気も濁らせていた。

 その周囲に建てられた市営のコンクリート住宅は常に薄暗く、煤けた壁を吹き抜ける風が、耳障りな音を立てていた。


 マユラは、この国がまだ経済成長に希望を抱いていた頃──この団地が煤けていなかった時代に生まれ、両親の愛情のもとで育つはずだった。

 だが、バブルが弾ける頃には、父はマユラと母・トウコを置き去りにするように、忽然と姿を消していた。




「母さん……少し、出かけてくるよ」


 マユラは、カーテンを閉め切った薄暗い居間から、母の部屋の扉に向かって声をかけた。

 今は午後三時を過ぎた頃。夜の水商売に備え、トウコは眠っている時間帯だ。

 だが、そろそろ起きてもおかしくない時間でもある。


 毎日すれ違うように生活する親子。

 マユラは、たった一言でもいいから、母と言葉を交わしたかった。


「……」


 けれども、返事はなかった。いつものことだ。

 眠りが深いのか?

 それとも、聞こえていながら無視しているのか?

 トウコがマユラの呼びかけに答えることは、滅多にない。




「……。」


 だが、いつも通りトウコからの返事はない。



 それ程眠りが深いのか?


 それとも、聞こえていて無視しているのか?


 トウコは、マユラのたった一声にも、殆ど答えてくれた事はない。




「……母さん」


 マユラはじっと扉を見つめ、「今日こそは」と祈るようにしばし待ち続けた。

 忘れかけた母の顔を思い出そうとし、その記憶を扉の向こうに重ねようとする。


「……っ」


 だが、再生されるのは、決まって“思い出したくない”記憶だった。

 かつてその扉の奥で見てしまった、あまりにも強烈な記憶──





” ─────────



「やめて! いや! いやぁぁ!!」


「うるせぇなぁ! 声あげんじゃねぇよ! 黙って上向いてろよ!ババァ!」


「おい、枕で顔塞いどけ!」


「おら! 大人しくしろや!」


「んー!! んー!!」


「さっさと済ませろよー!」


「おーし、ババァの腕まくれ!」


「んんー!! んんーー!!」


「暴れんじゃねぇよ! 針が折れて痛てぇめみんぞ! ああ!?」


「んー! んー! んーーー……」


「…………!!」


「…………」


「おーっし! いっちょアガり!」


「どうだぁー? キマんだろ、ババァ?!」


「ぶぁはははは! これでアンタも俺たちの仲間だなぁ! おめでとさーん!!」


「…………」


「オレたちみてぇな下っ端はよぉ…、こうやって仲間を増やして、金作らせんだよ! 明日から、アンタも死に物狂いで金作って来いよ! なぁ!? オバさん!!」


「…………」



───────── ”




 マユラは扉を見つめるたびに、この記憶が呼び起こされる。

 思い出すたびに、呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が激しくなる。

 体の奥から、何かがこみ上げてくる。




「うぅぁぁぁ!! うぅぁぁぁ!!」


 マユラは突然、甲高い叫び声を上げた。

 そして、頭皮を引き裂くような勢いで、頭をかきむしる。


 この記憶を、今すぐ消し去らなければ──

 狂ってしまう。


 思い出しているその脳髄が、ドブを流れるヘドロのように、どうしようもなく穢れて感じられるのだ。

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