この地球で、君に会えた奇跡

神田遥

プロローグ『星の記憶』

 静寂に包まれた夜の丘を、ひとすじの風がそっと吹き抜けた。

 息を呑むほど澄んだ空気の中、満開の桜が月明かりを受けて舞い、花びらは夜空から降りてくる小さな星のように淡い光を帯びながら漂っている。


 その幻想の中心に、ふたりの影が寄り添っていた。

 少女は震える肩を抱きしめ、涙を湛えた瞳で目の前の青年を見上げる。

 青年は微笑みを浮かべながらも、その視線はどこか遥か――夜空の奥にある、見えない世界を見つめていた。


「……もう、行くの?」


 風にかき消されそうなほど小さな声。

 それでも彼の耳には確かに届き、青年はゆっくりと頷く。


「ここにいれば、君を守れなくなる。

 愛は時に力となり、その力は狙われてしまう。

 だから――思い出を封じなければならないんだ」


「いや……そんなの、嫌。覚えていたいよ。あなたのこと、全部……!」


 頬を伝う涙を、青年はそっと指先でぬぐった。

 その手が少女の額に触れた瞬間、柔らかな光がほとばしる。

 まるで星が胸の奥へ降り注ぐように、温かな粒子がふたりを包み込んでいった。


「次に会うとき、きっと君は“思い出す”。

 だから約束して――

 もう一度、僕を見つけて。どんな姿でも、どんな名前でも」


 光の粒が少女の胸へ吸い込まれていく。

 それは心を閉ざすためではなく、再び愛を呼び覚ますための小さな“鍵”。


「その鍵は君の中にある。

 愛すること、自分を信じること。

 君がその力を思い出したとき――僕たちは、必ずまた出会える」


 風が強まり、桜の花びらが渦を描く。

 光の粒が夜空へと舞い上がるたび、青年の輪郭は少しずつ淡く、遠くへ溶けていった。


「名前を……教えて……」


 最後に、少女がかすれた声で願う。

 青年は微笑み、唇を動かした。

 けれど、その名は風にさらわれ、彼女の耳には届かない。


 ――次に目を開けたとき、そこにはもう誰の姿もなかった。

 ただ、夜空にひとつ凛と輝く一番星だけが残されている。

 それは彼女を導く灯火のように、静かに瞬き続けていた。

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