私の彼は勇者らしい

縁肇

第1話 私の彼は勇者らしい


 金曜日の夜。

 一週間の勤務を終えた私は、会社のビルを出た瞬間、夜の空を仰いだ。春の風が頬を撫で、冷たいはずなのに、頬の奥がじんわり温かい。電話応対、伝票、コピー機の紙詰まり──今日という日が全部のしかかっていた肩が、ようやく下りた気がした。

 ――真っ直ぐ帰って、シャワーを浴びて、ベッドに沈みたい。

 頭の中はそれだけで満たされていた。


 駅から十分ほど歩き、古いワンルームマンションに着く。廊下には誰かの夕飯の匂いが漂い、郵便受けにはチラシがぎゅうぎゅうに詰まっている。私は靴音を忍ばせながら三階まで上がり、カギを回した。ドアを開けた瞬間、平穏な計画は盛大にひっくり返った。


 ――ソファの上に、王がいた。


 洗濯物の山を玉座代わりに、ポテチを片手にリモコンを操る彼。ラグには靴下が転がり、テーブルの上には空になったマグカップ、そして……なぜかドラゴンの絵が描かれたメモ帳。白いシャツは半分ズボンに入って、残りはひらひらと垂れている。髪は寝癖で跳ね、頬にはポテチの粉らしきものが光っていた。

 「おかえり、澪」

 柔らかい声に迎えられたけれど、その格好は“お前の帰宅を称えよう、臣下よ”とでも言いたげだ。


 私は鞄をテーブルに置き、コートを脱ぎながら深呼吸した。

 「……この山は?」

 「勇者の防壁」

 「防壁って、ただの洗濯物じゃない」

 「いや、今日の戦いの成果だ」

 「戦ったのはポテチの袋でしょ」

 彼はにこにこと笑い、ポテチをもう一枚つまんだ。


 近づいて確認すると、やっぱり全部彼の服だった。朝、私が出社する前に脱ぎ散らかしたTシャツや、昨日の夜着ていたトレーナー、タオルまである。干されるでもなく、山の一部として鎮座している。

 「洗おうと思えばできるんだ、やればね」

 「やってから言おうか」

 思わず声が鋭くなる。勇者だか何だか知らないけれど、社会人一年目の私よりずっと家にいるくせに、このありさまとは。


 ――勇者。

 私が彼から聞いたのは、その言葉だけだ。

 「昔、勇者をやっていた」

 最初にそう聞いたとき、半分は冗談だと思った。だってその時点で、彼はスーパーの試食コーナーを“守る”と言い張って、おばあちゃんの買い物カゴを守備範囲に入れていたのだから。

 いまのところ、私が知る限りの“伝説”は、洗濯物と昼寝とポテチだけだ。


 私はクローゼットからハンガーを取り出し、ため息まじりにシャツを吊るした。手元の作業は完全に日常なのに、相手は「勇者らしい男」だと思うと、妙にコントじみて見える。


 その時、テレビの音量が少し上がった。

 『――続いてのニュースです。全国で指名手配されている“容疑者”の新たな目撃情報が――』

 画面には、モザイクのかかった顔写真と「20代男性・身元不詳」の字幕。シルエットが、ほんの少し彼に似ている……いや、きっと気のせいだ。うちの彼は茶色がかった髪に、ふにゃっとした目元をしている。モンスターを討伐した勇者──もとい伝説的ヒモが、ニュースに出るはずがない。

 「最近、物騒だね」

 「うん、そうだな」

 彼は平然と頷いたが、リモコンを握る手がほんの一瞬止まった。私は見て見ぬふりをして、洗濯を続けた。


 山を片付け終えた私は、シンクに目を向ける。朝の食器がそのまま鎮座している。

 「勇者さん、その食器、討伐お願いできる?」

 「む? 食器モンスターか」

 彼は立ち上がり、スポンジを剣のように握り、真顔で構えた。

 「この六畳王国の平和、俺が守る!」

 「そこはキッチンだよ」

 「ここも領土だ」


 私は吹き出した。

 伝説の勇者か、それとも伝説的ヒモか。答えは、きっと両方だ。


 「じゃあ、支援魔法をかけるね。『お皿がピカピカになりますように』」

 「おお、バフか! これで必殺技が使える」

 彼は楽しそうに泡を立て、シンクで食器を一枚ずつ“討伐”していった。泡がライトに反射してきらきら光り、まるで剣戟の残光みたいに見えた。


 金曜の夜、六畳の部屋に小さな“王国”が広がる。

 社会人と勇者──いや、伝説的ヒモかもしれない彼との、ちぐはぐで温かい同棲生活が、今日もゆるく幕を開けた。

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