星はまだ息をしている
七緒ナナオ
第1話 勝利という名の敗北感
深呼吸して黒縁の眼鏡を外すのは、
渋谷にあるクラブ。真っ黒な箱の中には、クリアな光と重低音が満ちている。
汗と熱気が溶けあって、DJが回す曲のビートと心臓の鼓動が同期する。
フリースタイルダンスバトル EDGE OF DREAM——。
ダンスのジャンルも年齢も、すべて
自分が持ち得るすべてのスキルとパッションで、今宵の観客を一番沸かせたヤツが優勝、というシンプルなバトルだ。
大学3年の春休み。3月から就職活動が本格的に動き出す前の、2月下旬。
尾褄は、12歳からはじめたダンスの10年目の区切りと最後の思い出作りとして、このバトルにエントリーした、というわけ。
観客に囲まれたフロアの中央で、尾褄がうねる癖毛を無造作に掻き上げる。
折り畳んだ眼鏡は、黒ジャケットの内ポケットへ差し込んだ。
シルエットが美しく出る細身のパンツと靴も黒。腕まくりしたジャケット内のシャツだけが白く照明を反射している。
首から下げた金のネックレスが深呼吸のせいで揺れて、チャリ、と鳴った。
いつでも行ける。
どんな曲だって、踊りこなせる自信がある。
「EDGE OF DREAM 決勝ラウンド! ——CHIKA vs OZ!」
MCの声に呼応するように、観客の歓声が爆発した。
尾褄——OZのこめかみから吹き出た汗で、額に癖毛が一筋張り付く。
1ムーブ45秒。それを対戦相手と交互に2ムーブ。
それが終われば、OZのダンス人生が今日、ここで終わる。
人生で最初にして最後のバトルだ。
このラウンドが終われば、あとに待つのはお堅い現実だけ。
就活をして、就職をする。
大学まで出してくれた親の期待に応えるために。
ダンスで生きていく夢なんか、諦めるのが親孝行ってもんだろう。
DJが回す曲が切り替わる。BPMは128前後。体感的に踊りやすいテンポだ。
OZの前には、対戦相手であるCHIKA。
黒いフードを被った少年で、陽気な笑顔を観客に向けて手を振っている。
シルエット重視のOZとは対極にあるようなゆったりとしたストリート系の服は、上は黒のプルオーバーで、下は鮮やかなオレンジ色だ。
「……Are You Ready? ——go!」
MCの掛け声でCHIKAがフロアの中央に飛び出してゆく。
自信に満ちたステップで、身体のバネが強いのか上下左右によく跳ねる。
かと思えば、繊細で美しいピルエット。観客から吐息混じりのため息が漏れる。
気持ちのいいバイブスだ。CHIKAのダンスは情熱的で、緩急に優れたエンターテイメントだ。
「……3、2、1——Change!」
次はOZのターン。
スポットライトの真ん中へ誘われるように躍り出て、ダンススクールとストリートで磨いたスキルで魅せてゆく。
流れるようなウェーブに、精密なアイソレーション。
音を掴み取って魅せるかのように、滑らかに。それでいて鋭く強く筋肉を弾く。
加速したビートにバイブレーションを乗せて、観客の視線とフロアの空気を掌握してゆく。
CHIKAの視線とバチリと合った。
熱を帯びた輝きが、物欲しそうな貪欲さが、OZの心に火をつける。
目には目を、歯には歯を。——ピルエットにはピルエットを。
優雅に返してニヤリと笑う。フロアは熱を帯びた歓声で沸いている。
45秒は、あっという間だ。すぐにCHIKAのターンに切り替わる。
2ムーブ目も、CHIKAのダンスは爆発的なエネルギーに満ちていた。
見ているだけでバイブスが上がってゆく。
白熱したバトルに、OZは全力で挑んだ。
すべてのスキルとパッションを出し切って、
音に乗るだけではなく、身体で語るように。
観客の記憶に刻みつけるかのように。
そうして45秒後「……3、2、1——終ー了ー!」と。MCの声が響いて、OZのダンス人生が終わった。
ジャッジまでの時間を目を瞑ってやり過ごす。
「Judge——CHIKA、OZ、OZ! Winner……OZ! 拍手を!」
これで終わり。ダンスは終わり。
わっ、と盛り上がる歓声を、OZはどこか他人事のように聞いていた。
そんな中、息を切らしたCHIKAがOZ——いや、尾褄に駆け寄ってくる。
凛々しい眉を跳ね上げさせて、特徴的な黒子が印象的だ。
大きな口の端が弧を描いている。
まるで宝物を見つけたかのような満面の笑みに、尾褄は一歩、後退りした。
「すげぇよ、あんたのダンス……! あんた、PopTide-Labのyu-maさんの教え子だろ!?」
「あ、ああ……」
「やっぱり! すぐわかった。あんたがこのバトルに出るってyu-maさんから聞いて参加したんだぜ、おれ!」
「……なんで?」
「なんだよ控えめなところもyu-maさんが言ってた通りじゃーん! あんたのこと、yu-maさんがベタ褒めしてんの知らないの?」
バトルのときと同じ
CHIKAが言うyu-maというのは、ダンススクール PopTide-Labの代表で、
——
そもそも、就活を理由にしてダンスを辞める自分を褒めるわけがない、と。尾褄は自重気味に笑って首を振る。
それを謙虚と受け取ったのか。CHIKAがにっこり笑ってスマホを取り出した。
「おれさ、あんたともっと、踊りたい!」
その言葉と笑顔に、尾褄の言葉が喉の奥で詰まる。
連絡先の交換を促されているのは、はっきり言われなくてもわかった。
——断るべきだ。
今夜のバトルに出たのは、最後の記念にするためだから、と。
もうダンスからは離れてしまうのだ、と言ってしまえばよかった。
けれど、CHIKAの笑顔があまりにも無邪気で純粋で。
永遠にダンスフロアで踊り続けることが叶う、と本気で信じている人間の輝きだったから。
尾褄は躊躇いながらも、連絡先を交換してしまった。夢の時間はもう終わってしまったのに。
胸に去来するのは失意か、喪失か。
観客の歓声とCHIKAの期待に満ちた「またな!」の言葉に背を向けた尾褄は、現実世界へ戻る重い扉を開けて階段を上がってゆく。
すると、だ。
ポケットの中でスマホが短く震えた。きっとCHIKAだ。
けれど尾褄はスマホを確認しようとはしなかった。
確認なんて、できるわけがない。尾褄には、そんな資格がない。
ダンスを捨てた尾褄が——OZが、CHIKAと踊る日は、もう二度と来ないのだから。
尾褄はジャケットの内ポケットから眼鏡を出してかけ直し、まだ春には遠い渋谷の夜風を浴びてゆく。
冷たい風が心臓に染みた。明日から、就活のエントリーシートと向き合わなければならない。
バトルで確かに優勝したはずなのに、予選落ちでもした虚しい気分。
どうしようもなく泣けてきて、尾褄は人目も憚らずに流れる涙をそのままに、ひとり寂しく帰路に着く。
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