第1話
月曜日が憂鬱で苦手な僕も、自分にしかできない仕事をしている自負はある。自動車会社で「水素エンジン」の開発をしているのだ。この世界から二酸化炭素を減らすことが僕のやりがいだ。趣味は、故障した車を直すこと。
かろうじて着替えが終わると、鏡の中の僕に笑った。寝癖がひどい。ぼさぼさで髪の毛があちこち向いて踊っている。スプレーをかけて、ブラシでとかすと髪の毛も「職責」の枠にはまった気がした。
玄関を出ると、アパートの五階から見える新緑が眩しい。十五分ほど歩いてようやく地下鉄丸ノ内線の駅に着いた頃には軽く汗ばんでいた。間もなく到着した電車に揺られ、乗り換えを二回して三十分ほどすると会社の最寄り駅に到着した。さっきまで晴れていたのに駅を出るとタイミング悪く、雨が降ってきた。猛ダッシュで走って会社へ向かった。
三階のフロアは、いつもと違って騒然としている。
「竹村さん、大変です!」
同僚の安田さんの言葉にただ事でないことを察知した。
「大規模リストラするって発表がありました。ほら」
安田さんが指さした電子掲示板前には人だかりができていた。詳細は書かれておらず、近日中に対象者には知らせがあるというのだ。
僕は研究職だからきっと大丈夫だという自信があった。何しろ、社運を掛けた「水素エンジン」の開発を任されているのだ。いつもと同じようにロッカーで着替えをして白衣に袖を通した。白衣に身を包むと気持ちがぱりっと引き締まる。研究者のスイッチに切り替わる頃には、月曜日の朝の憂鬱は消えていた。
カチっと無機質な音がした。何が落ちたのだろうと辺りを見渡すと、小さな半透明のボタンが落ちていた。袖口を見ると、糸がほつれていた。家に帰ったら縫い付けようと小さなボタンをロッカーの財布にしまうと、僕は足早に研究室に向かった。先週の実験結果を解析しなくてはならない。
「竹村君」
振り向くと、そこには部長がいた。
「ちょっと来てくれないかな」
部長が口ごもりながら言う姿を見て、僕は全てを理解した。思い空気の中、部長の後を会議室まで付いていくと、ドアの前でおもむろに部長が振り返った。
「今日は、大切なお願いがある」
「はあ」
僕はとぼけた声を出しながら中に入った。広い会議机の端に二人で対面して座ると、部長は万博の資料を広げた。覗き込むと、ライバル他社の信じられないニュースが載っていた。
『水素エンジンで駆け巡る四足歩行のロボット!』
「さきほど、映像を見たんだがね、流線型のまるで生き物みたいな乗り物が自由自在に、まるで命を得たかのように走り回っているんだよ」
僕は絶句した。
「社長もそれを見てね、うちの水素エンジン部門は閉鎖する意向を示したんだ」
「部長! どういうことですか? 今、ようやく水素エンジンの開発が軌道に乗ってきたというのに」
「もう他社に追いつけない。間に合わなかったということだよ」
吐き捨てるように言った部長の顔は傲慢さで満ちていた。
「僕のプロジェクトはどうなるんですか!」
感情の箍が外れ、声を荒げた。
「残念だがね、おしまいだ」
得たいの知れない感情に支配された僕は、机に両手を付け頭を突っ伏した。全身の血液が頭に流れたのかと思うほど頭に血が上った。
「社長に会わせてください!」
部長では話にならない。冷酷で人の気持ちが分からないばかりか、いつも部下を見下している。彼の言葉には誠意の欠片もないのだ。
「すまない。それはできんよ」
直談判をはね除けられた僕は、ギラついた目で部長を見上げた。
「君に部署を移ってもらうか、辞めてもらうかどちらかだ。選んでくれ」
怒りに震えた目で部長を睨んでいた。
「異動先は経理部門だ。そこで経費の基礎を学んでから、電気自動車部門に行ってくれたまえ」
電気自動車部門はこれまで社内で敵対していた部署なのだ。そこに行くことも想像できなかったが、経理部門なんて僕には全く向いていなかった。書類作成の類いが全くの苦手分野なのだ。必要最低限の提出書類だって、ミスを連発してしまう。全くの不適材だ。完璧にリストラではないのか?
選択できない選択肢を与えることで、自ら退職に追い込もうというやり方だ。
「僕は、経理は向いていませんし、今さら電気自動車部門なんか行けるわけないじゃないですか」
声が震えた。握りしめた拳は赤くなっている。
「そうは言うものの、社長の命令なんだ。済まない」
部長が深々と頭を下げた。リストラ勧告であると認識した僕は、それ以上の言葉を持ち合わせていなかった。
「いつからですか?」
「今月末になる。申し訳ない」
放心状態になった僕は部長に有休を申し出ると、着替えをして帰路に就いた。営業部門の同僚に「体調が悪いのか?」と心配されたが何も答えることができなかった。
会社の正面玄関をくぐり後ろを振り返った。
「ついてないな」
社名の看板が、今は忌々しく見える。日本一の車メーカー「TOIDA」に就職して人生安泰だと思っていたのに。たった一日で、こんなに変わってしまうなんて。朝来た道を引き返しながら空を見上げると、また雨雲が近づいていた。
「ふざけるな」
ため息と一緒に、やりきれない感情がこぼれ落ちた。
地下鉄丸の内線の駅まで走った。息を切らせながらどうにか駅に辿り着いた時、雨粒がぽつりと植え込みの紫陽花の花びらに落ちた。その直後、激しい雨が降り出した。青紫の紫陽花に混じって白い紫陽花が咲いている。珍しいな。
構内に入ると、ふと前から気になっていた「キアリーヌ」という喫茶店が目に入った。昭和を思わせるような外観のドアを、僕は迷わず開けた。僕は自由の身なのだ。今月いっぱい全て欠勤したって構わない。水素エンジン開発部が閉鎖になるのなら引き継ぎだっていらないだろうから。
ドアチャイムの音が涼やかに鳴り響いた。窓際の席に案内された僕は、いつも見ている風景を反対側から見ることになった。窓の向こう側にはスーツ姿の男女がひっきりなしに行き交っている。表情は皆、固くこわばっているように見えた。僕は、ハウスメーカーに勤めている親友にラインを送った。
《今朝、突然リストラされた。仁、今日の仕事何時終わり? 夕飯一緒にどう?》
仕事中だろうから返信は期待しないで、注文した珈琲を飲んてぼんやりと過ごしていた。心の中は空っぽだった。ふと、駅に面した窓を見ると、向こう側から誰か覗いている。「まさか!」青黒い顔をした目の窪んだ男だ。「アイツだ!」「青陰」という言葉が浮かんで来た。仁と一緒に調査をした時のことを思い出した。「青陰」を見た者には、必ず「不吉なこと」が待っているのだという。「気のせいだ」見なかったことにしたかった。
時間を持て余した僕は、食べ物も注文することにした。喫茶店の前を通る度に見掛けた「キアリーヌ」特製「厚焼き玉子のベイクドサンドイッチ」を一度食べてみたかったのだ。
しばらくして運ばれてきた「厚焼き玉子のベイクドサンドイッチ」はやわらかそうな厚焼き玉子の甘い香りを漂わせ、サラダとスープまでセットになっていた。
念願だったベイクドサンドイッチを頬張ろうと大きな口を開いた瞬間に携帯の通知音が鳴った。仁からだ。サンドイッチを持った手が一瞬止まった。片手で携帯を操作しながら一口食べると、厚焼き玉子の甘さが口の中いっぱいに広がった。
《直樹、大丈夫か? 今晩一緒に夕飯食べよう》
《突然、都合付く?》
《親友が一大事なんだから万障繰り合わるに決まってる》
《ありがとう》
《僕の会社の近くの店だとありがたい》
《もちろん! 今日はもう有休取ってるから》
仁に話を聞いてもらいたい。だが僕の悩みを聞いた彼が、「一緒に死にたい」と言わないだろうか? 不安が入り混じる。
結局僕たちは、仁のハウスメーカーの方向にある居酒屋で待ち合わせをすることになった。その場所は、僕たちが高校生の頃に仁と一緒によくつるんでいた喜多川香織の家の方向だと説明があった。
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