第2話 奇妙なる従者

 仙薬を菓子と勘違いして飲んだ下働き――〈愚楽〉と名付けられた男の噂は、一夜にして咸陽宮全体に広まった。

 「いずれ首が刎ねられるだろう」と嘲る声と、「陛下が笑っていた」という驚きの声が交じり合い、誰もがこの奇妙な存在に目を向けた。


 翌日、愚楽は兵士に呼び出され、恐る恐る宮廷の奥へと足を踏み入れた。そこは、始皇帝が私的に謁見を行う広間である。厳重な衛兵の眼差しに晒されながら、愚楽は膝を震わせて進んだ。


 玉座に座す始皇帝は、威風堂々とした姿で彼を見下ろした。

「面を上げよ、愚楽」

 低く響く声に、愚楽は慌てて顔を上げた。


「そなた、昨日はわしを大いに笑わせた」

「ひ、ひぃ……恐れ多いことでございます! 俺はただ、菓子だと思って……」

「だから面白いのだ」


 帝の言葉に広間がざわめく。廷臣たちは一様に顔をしかめた。


 一人の大臣が進み出て、深々と頭を下げた。

「陛下、このような無礼者を傍に置くなど前代未聞にございます。帝国は今まさに万里の長城を築き、南方を平定し、天下統一の威を広めておられる最中。臣下は慎重であるべきで……」


 その声を遮るように、愚楽がぽろりと呟いた。

「長城って……そんな長ぇ壁、誰が端から端まで見に行くんだ?」


 広間の空気が凍りついた。廷臣たちは一斉に愚楽を睨みつける。だが始皇帝は目を見開いたあと、腹を抱えて笑い出した。

「はははは! 確かに誰も端から端まで見に行けぬな! だがそれがよい。天下に“余の力”を示すのだ!」


 大臣は顔を真っ赤にし、震える声で訴える。

「陛下、こやつの戯言に耳を貸されては……!」

「戯言ゆえに良いのだ!」


 始皇帝の声は雷鳴のごとく響き、廷臣たちは言葉を失った。


 帝は愚楽に視線を戻し、口元を吊り上げる。

「天下を統べる者には、賢き策も必要だが、愚かなる笑いもまた要る。余の退屈を払うのは、そなたの務めよ」


「え、ええと……俺は飯と笑いで仕えるってことか?」

 愚楽が恐る恐る言うと、広間に再び冷気が走った。廷臣たちは「この無礼者め!」と今にも叫び出しそうだ。


 だが始皇帝は、玉座から立ち上がり、愚楽の肩をどんと叩いた。

「その通りだ! 飯と笑いは万民に欠かせぬ。余の傍に仕える者がそれを担うなら、天下に不足なし!」


 廷臣たちは一斉に嘆息し、顔を伏せた。誰もが信じられなかった――天下を統べる始皇帝が、一介の下働きを「従者」として取り立てたことを。


 こうして愚楽は正式に始皇帝の傍に仕えることとなった。役目は「御前雑使」、皇帝の私的な用をこなす従者である。だが実際には、帝の笑いを引き出す奇妙な存在として、咸陽宮に新たな風を吹き込むことになる。


 壮大な帝国の歴史のただ中で、一人の愚かで楽しい従者が歩み始めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る