第3章:魔王の過去の影
ユウが城での生活を始めて一週間が過ぎた。
毎日の日課は決まっていた。朝は身支度を整え、午前中は基本的な作法を学び、午後は魔王の公務に同席する。夕方には自由時間があるが、城から出ることは禁じられていた。
この一週間で、ユウは多くのことを学んだ。魔族の礼儀作法、城の構造、そして何より——この世界の複雑な政治情勢について。
魔族の国と人間の諸国は、表面上は平和条約を結んでいる。しかし実際には、常に一触即発の緊張状態が続いていた。人間側は魔王の力を恐れ、隙あらば攻撃の機会を窺っている。魔族側も人間への不信を抱き、警戒を怠らない。
そんな微妙な均衡の中で、ヴァルゼルは慎重に国を治めているのだった。
「ユウ様」
図書館で本を読んでいると、レオンが現れた。
「魔王様がお呼びです。至急、玉座の間にお越しください」
「何かあったんですか?」
レオンの表情は暗く、いつもの穏やかさがない。
「人間国の動きに、不穏なものがあるようです」
◆◆◆
玉座の間に着くと、普段とは違う緊迫した空気が漂っていた。魔族の重臣たちが集まり、深刻な表情で話し合っている。
「来たか」
ヴァルゼルは玉座に座ったまま、険しい顔でユウを見た。いつも以上に冷たい視線だった。
「隣に立て。そして今日は絶対に口を開くな」
「はい」
ユウが定位置に着くと、重臣の一人が前に出た。軍事顧問のザルド将軍——鋭い瞳と傷だらけの顔が印象的な初老の魔族だった。
「魔王様、報告いたします」
「聞こう」
「人間国リベルタニア王国の国境付近に、大規模な軍事施設が建設されております。表向きは『防衛強化』とのことですが」
「実際は攻撃準備か」
ヴァルゼルの声に怒りが滲んでいる。
「その可能性が高いかと。さらに、他の人間諸国も軍備を増強している動きが確認されています」
「つまり、包囲網を築いているということだな」
玉座の間に重い沈黙が落ちた。魔族の国が人間諸国に包囲されようとしている。これは明らかに戦争への準備だった。
「魔王様」別の重臣が口を開いた。「先手を打つべきではないでしょうか。彼らが完全に準備を整える前に」
「愚かな」ヴァルゼルが一蹴する。「こちらから攻撃すれば、彼らの思う壺だ。『魔王が侵略を開始した』という大義名分を与えることになる」
「では、このまま指をくわえて見ているのですか?」
「策はある」ヴァルゼルの瞳が鋭く光った。「人間どもは俺の『弱点』を突こうとしている。ならば、その弱点を逆に利用してやる」
弱点——その言葉を聞いて、ユウは自分のことだと理解した。人間国は、魔王の婚約者であるユウを利用しようと考えているのだ。
「具体的には?」
「まず、婚約発表の公式式典を行う。各国に使者を派遣し、盛大に祝ってもらう」ヴァルゼルの口元に冷たい笑みが浮かんだ。「そして同時に、婚約者への危害は魔族全体への宣戦布告と見なすと宣言する」
重臣たちがざわめいた。これは明らかに挑発だった。
「魔王様、それは危険すぎるのでは」
「危険だからこそ効果がある。人間どもは慎重になるだろう。少なくとも、直接的な攻撃は躊躇するはずだ」
「しかし、もし彼らが婚約者様を標的にしたら…」
その時、ヴァルゼルの魔力が爆発的に放出された。玉座の間全体が震動し、空気が重くなる。
「その時は」低く、恐ろしい声で呟いた。「人間どもを地上から消し去る」
ユウは背筋に悪寒を感じた。これが魔王の本当の力。そして、その力の恐ろしさを。
でも、同時に気づいたことがある。ヴァルゼルは自分を守ろうとしてくれている。政治的な道具として必要だからかもしれないが、それでも。
「準備を進めろ。式典は一ヶ月後だ」
「かしこまりました」
重臣たちが退席していく中、ユウとヴァルゼルだけが残された。
「すみません」ユウが口を開く。「俺のせいで、面倒なことになって」
「貴様のせいではない」ヴァルゼルは疲れたようにため息をついた。「人間どもは元々、俺を滅ぼそうと考えていた。貴様はただ、そのきっかけに利用されているだけだ」
「でも…」
「心配するな」ヴァルゼルが立ち上がる。「俺は貴様を守る。それが契約だからな」
契約だから。愛情や友情ではなく、契約だから。その言葉は、ユウの胸に複雑な感情を呼び起こした。
◆◆◆
その夜、ユウは眠れずに城の廊下を歩いていた。
深夜の城は静寂に包まれ、松明の灯りだけが長い影を作り出している。使用人たちも眠りについた時間。ユウの足音だけが石の床に響いた。
気がつくと、城の最上階に上がっていた。そこには大きなバルコニーがあり、夜空を一望できる。二つの月が煌々と輝き、見知らぬ星座が瞬いていた。
「眠れないのか」
突然の声に振り返ると、ヴァルゼルが立っていた。いつもの豪華な衣装ではなく、簡素な黒いローブを纏っている。
「魔王様…すみません、勝手に」
「構わん。ここは俺もよく来る場所だ」
ヴァルゼルがバルコニーの端に歩み寄る。月光に照らされた横顔は、昼間よりも柔らかく見えた。
「何を考えていた?」
「俺のせいで戦争になったら、どうしようって」
「戦争はいずれ起こる」ヴァルゼルが断言した。「人間は魔族を恐れ、憎んでいる。平和など、所詮は幻想だ」
その声には深い諦めがあった。
「魔王様は、なぜ人間をそこまで憎むんですか?」
長い沈黙。ヴァルゼルは夜空を見上げたまま動かなかった。
「…昔、人間を信じていたことがある」
ポツリと呟かれた言葉。ユウは息を呑んだ。
「500年前のことだ。俺には愛する者がいた」
500年前。ゲームの設定で語られていた、あの悲劇のことだ。
「セラフィナという人間の女性だった。美しく、優しく、心根の清らかな人だった」ヴァルゼルの声に、かすかな温かみが宿る。「彼女は魔族である俺を恐れず、愛してくれた。俺も…心から彼女を愛していた」
「でも、何かあったんですね」
「ああ」ヴァルゼルの拳が握りしめられる。「彼女は俺を裏切った。人間の軍勢を魔王城に招き入れ、俺の仲間たちを皆殺しにした」
ユウは言葉を失った。ゲームでも触れられていた悲劇だが、実際に当事者の口から聞くのは重い。
「俺は彼女を愛していた。だからこそ、裏切られた時の衝撃は大きかった」ヴァルゼルが振り返る。その瞳には、500年経っても癒えない傷があった。「人間は皆、そうなのだ。最初は優しい顔をしていても、いずれ牙を剥く」
「でも」ユウは慎重に言葉を選んだ。「もしかしたら、彼女にも事情があったのかもしれません」
ヴァルゼルの瞳が鋭くなった。
「事情?仲間を殺されて、事情も何もあるものか」
「そうじゃなくて…」ユウは続けた。「愛する人を裏切るなんて、相当な理由がないとできないと思うんです。もしかしたら、脅されていたとか、家族を人質に取られていたとか」
「甘い考えだ」ヴァルゼルが一蹴する。「人間の本性は残酷で利己的だ。愛など、所詮は見せかけに過ぎない」
「俺は人間ですが、魔王様を裏切るつもりはありません」
「まだ一週間だ」ヴァルゼルが冷たく笑う。「時が経てば変わる。必ず変わる」
その確信に満ちた口調に、ユウは胸が痛んだ。きっとヴァルゼルは、500年間ずっとそう思い続けてきたのだろう。人間への不信、裏切りへの恐怖、そして孤独。
「魔王様」
「何だ」
「俺は変わりません。どんなことがあっても」
ヴァルゼルがユウを見詰めた。月光の下、その瞳は複雑な感情を宿していた。
「…そう言った人間を、俺は知っている」
セラフィナも、きっと同じことを言ったのだろう。そして結局は裏切った。
「でも俺は」ユウが一歩近づく。「魔王様の側にいたいんです。政治的な道具でも構いません。それでも、一人で戦っている魔王様の隣にいたい」
「なぜだ」
「…分かりません。でも、そう思うんです」
長い沈黙が続いた。夜風が二人の間を通り抜ける。
「愚かな奴だ」最終的に、ヴァルゼルはそう呟いた。「人間はいつか必ず裏切る。それが本性だ」
「じゃあ、俺が裏切らなかったら、信じてもらえますか?」
「…それは無理な話だ」
でも、その声には先ほどまでの冷たさはなかった。むしろ、どこか寂しげにさえ聞こえた。
「時間だ。部屋に戻れ」
ヴァルゼルがバルコニーから去っていく。その背中は、やはり孤独に見えた。
◆◆◆
翌日から、婚約式典の準備が本格的に始まった。
城中が慌ただしくなり、使用人たちは準備に追われている。招待状の作成、料理の手配、装飾の準備。魔族の国始まって以来の大イベントだった。
「ユウ様」レオンが現れた。「衣装の採寸をいたします」
式典用の衣装は、見たこともないほど豪華だった。白を基調とし、金の刺繍が施された礼服。胸元には魔王家の紋章が輝いている。
「立派ですね」
「魔王様の婚約者に相応しい衣装です」仕立て屋が自慢げに言った。「これを着れば、どこに出ても恥ずかしくありません」
でも、ユウの心は複雑だった。この式典は政治的なパフォーマンスに過ぎない。愛し合う二人の婚約ではなく、戦略的な駒として利用されるための儀式。
「レオンさん」採寸が終わった後、ユウが尋ねた。「魔王様の昔の恋人のこと、知ってますか?」
レオンの表情が暗くなった。
「セラフィナ様のことですね。存じております」
「彼女は本当に魔王様を裏切ったんですか?」
「…それは」レオンが困ったような顔をする。「複雑なのです」
「複雑?」
「詳しくはお答えできませんが、あの件には多くの誤解があったのではないかと思います」
誤解。ユウの胸に希望が灯った。
「もしかして、彼女は本当は魔王様を愛していたんですか?」
「それは…」レオンが周りを見回す。「ここではお話しできません。後ほど、お部屋で」
◆◆◆
その夜、レオンがユウの部屋を訪れた。
「誰にも聞かれてはいけない話です」レオンが小声で言う。「セラフィナ様のことについて」
「はい」
「実は、私はあの事件の生き残りなのです」
ユウは驚いた。500年前の事件の当事者が、目の前にいる。
「セラフィナ様は確かに人間の軍勢を城に招き入れました。しかし」レオンの瞳に悲しみが宿る。「それは彼女の本意ではありませんでした」
「どういうことですか?」
「彼女の家族——両親と幼い弟が人質に取られていたのです。『魔王を裏切らなければ、家族を殺す』と脅されていました」
ユウの予想は的中していた。セラフィナは愛する人を裏切りたくなかったが、家族を守るために仕方なく。
「でも、なぜ魔王様に相談しなかったんですか?」
「それが…」レオンが苦い表情を見せる。「セラフィナ様は魔王様を愛するあまり、ご迷惑をかけたくないと思ったのです。『私一人の問題で、魔王様を危険に晒すわけにはいかない』と」
なんという皮肉だろう。愛するが故に相談できず、愛するが故に裏切らざるを得なかった。
「魔王様はそのことを?」
「ご存知ありません」レオンが頭を振る。「セラフィナ様は最期まで、その真実を話されませんでした。『魔王様を恨まないでください。全ては私の罪です』と言い残して」
ユウの目に涙が浮かんだ。何という悲劇だろう。すれ違いと誤解が生んだ、取り返しのつかない悲劇。
「でも、なぜレオンさんは魔王様に真実を話さないんですか?」
「…今更、知ったところで」レオンが寂しく微笑む。「魔王様が救われるでしょうか?500年間憎み続けてきたものが、実は誤解だったと知って、幸せになれるでしょうか?」
確かに、それも一つの考えだった。でも、ユウには違って思えた。
「真実を知ることで、魔王様の心が少しでも軽くなるかもしれません」
「それは…」
「少なくとも、人間全てを憎む理由はなくなります」
レオンは長い間考え込んでいたが、やがて小さくため息をついた。
「ユウ様が判断してください。もしも魔王様に真実を伝えるべきだと思われるなら、私はいつでも証言いたします」
重い責任だった。500年間の誤解を解くかどうか。ヴァルゼルの運命を変えるかもしれない選択。
「分かりました。よく考えてみます」
レオンが去った後、ユウは一人で考え続けた。
真実を知ることは、ヴァルゼルにとって救いなのか、それとも新たな苦痛なのか。愛する人が実は自分を愛し続けていたと知って、彼は幸せになれるだろうか。
でも、一つだけ確かなことがあった。
今のヴァルゼルは、孤独すぎる。500年間、誰も信じずに生きてきた。その孤独を少しでも和らげることができるなら——
「明日、話してみよう」
ユウは決意を固めた。どんな結果になろうとも、真実を隠し続けるのは良くない。ヴァルゼルには、知る権利がある。
窓の外で、二つの月が静かに輝いていた。明日という日が、きっとすべてを変えるだろう。
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