2016
ルームシェア
尚人と勇のルームシェアは、ほとんど三人で住んでいるような状態だった。出ていったはずの江口は合鍵を持っていて、二、三日おきにふらっと部屋に現れた。
尚人は江口のことが嫌いだった。いい年して実家からこづかいをもらっているというのは有名な話だったし、ジャケット、ブーツ、財布、時計、ギター、江口が身に着けるものはどれもいいものばかり。そのくせタクシー代がもったいないからといって尚人たちの部屋で始発を待つケチくさい男。尚人にとって江口は、畑を荒らすイノシシのような存在だった。部屋にあるものはなんでも勝手に使い、勝手に持ち出す。電気や水にとどまらず、食料、漫画、ペン、ガムテープ、集めて冷蔵庫にはっておいた缶コーヒーのシール、出がけにとりこんだ洗濯ものの中から靴下が消えたこともあった。少しでも感謝したり申し訳なさそうにしていればまだかわいげもあるが、江口はどこまでも厚かましく、文句を言っても「細かい男だな」と一蹴される始末だった。鍵を替えようと何度も勇に持ちかけたが「そのうちな」と毎回はぐらかされてしまう。尚人が江口に対する不満を言えば「悪い人じゃないんだ」とフォローするし、江口が夜中に突然押しかけてきても、友人として迎え入れた。
極めつきは年末、江口が勝手にふたりの部屋を打ち上げの会場に使ったことだ。勇とも尚人ともまったく面識のない人間を大勢呼び寄せてバカ騒ぎをし、仲間内で殴り合いのケンカを始めただけでは飽き足らず、うるさいと苦情を言いにきた隣人の男に殴りかかって、心配した他の部屋の住人に警察を呼ばれた。
外廊下で江口が警察と仲間たちの手で隣人から引きはがされている、まさにそのときに帰宅した尚人は、なぜあの場で全員警察に引き渡さなかったのかと、あとから何度も後悔することになる。鼻血で胸まで真っ赤になった隣人の姿と、それが自分の部屋で起きたという恐怖から、とにかくこの場をおさめなければと焦ってしまったのだった。
隣人はすっかり縮み上がってしまい大事にするのを避けたがっていた。江口に報復されるのを恐れたのかもしれない。警察の方もただのケンカとあって積極的な対応をめんどうくさがっている感じがして、結局注意だけで済んでしまった。
尚人はとりあえず隣人を避難させ、部屋にいた全員を叩き出した。部屋の空気は重たく淀み、呼吸しているだけで酔いそうなほどアルコールのにおいが滞留していた。ケンカのせいでテレビは液晶が割れて、こたつテーブルはひっくり返り、様々な酒の空き缶が部屋中に散っている。廊下のフローリングにはなにかの水たまりができていた。窓を全開にして、床を拭き、そこら中に散っているゴミを拾い始めた尚人は、部屋のすみでひしゃげた黒い塊を見つけた。血の気が引く。すぐにまた使うからと思って玄関のそばに置きっぱなしにしていたビデオカメラのバッグが、明らかにだれかに踏まれた形で潰れていた。慌てて中身を出すが、すぐにダメだとわかった。レンズにヒビが入っているし、開閉式モニターのヒンジが割れてとれかかっている。ブルーAの学園祭公演を撮影するために家から持ち出して以来、ずっと使ってきたものだ。元は父のものだが、ブルーAがライブをやるたびに撮影をしていたら、そんなに頻繁に使うならと譲ってくれた。もうだいぶガタが来ていて、早く買い替えたいとずっと思っていたけれど、まさかこんな別れかたになるなんて想像していなかった。手に持ったビデオカメラに視線を落としたまま、しばらく動けなかった。
アルバイトから帰ってきた勇は、部屋の惨状を目にして言葉を失った。すぐに江口のしわざだと思い当たったようで、尚人になにが起きたのかを尋ねた。
尚人はさっきまでここで起きていたことを説明し、これまでの不満をぶちまけた。
「だから何度も言ったじゃないか! あいつを甘やかし続けるからこんなことになったんだ。人の厚意につけこんでのさばることに、これっぽっちも恥を感じない。あれはそういう人間なんだよ!」
悪いのは江口なのに、勇への苦情が止まらなかった。これじゃまるで、勇を責めることで自分が正しいと証明しようとしているみたいじゃないか。そう思っても止められなかった。
勇は反論ひとつせず、ただ荒れ果てた部屋に視線をさまよわせていた。
だんだんむなしくなってきて、その晩はお互いに言いたいことが残った中途半端な状態のまま話は終わった。
翌日、隣人に謝りに行ったが会えなかった。それからも何度か訪ねたのだが、留守なのか居留守なのか、結局一度も話ができないまま、その人は引っ越してしまった。よく考えれば尚人も勇も隣人の名前すら知らず、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
今回のことでさすがの勇も決心がついたらしく、玄関の鍵を交換した。壊れたテレビや、傾いてしまったこたつテーブルも買い替えたいが、鍵交換でふたりとも財布はすっからかんだったので、追々ということになった。とにかく、これでもう江口に家を勝手に使われることはなくなる。それだけで尚人の心は穏やかさをとり戻せた。
折良く、父の知り合いがお古のビデオカメラを譲ってくれた。もちろん最新機種に比べればだいぶ性能は劣るが、今まで使っていたカメラよりずっといい。トラブルの衝撃を打ち消すまではいかずとも、思わぬ幸運に気持ちを持ち直した尚人は、意気揚々とテスト撮影に繰り出した。
最後にやったのが、耐久テキストだ。完充電状態から、録画しっぱなしにしてバッテリーがどれくらい持つかを確認する。録画ボタンを押したあとは待つだけなので、カメラを部屋に置いてアルバイトに出かける。
「あ、尚人おかえりー」
帰ってくると、部屋に結月が来ていた。酔っ払っていつもより赤みの増した顔が、ふにゃっと尚人に微笑みかける。傾いたテーブルの上にはほとんどなくなったスナック菓子の袋と、アルコールの空き缶がいくつか並んでいた。
「ふたりで飲んでたの?」
「ん。ちょっと人生相談」
「答えは出た?」
「どうだろ。これから考える」
結月はとろんとした目で宙を仰ぐ。少し待ってみるが、どうやらその相談とやらを尚人に聞かせるつもりはないようだ。胸がちくりとした。
終電の時間が近くなってきて、勇は結月を駅まで送っていった。
部屋にひとりになり、テーブルの上を片づけ終えた尚人は、ビデオカメラを確認する。帰ってきてすぐに電源につないでおいたので少し充電がたまっていた。カメラの電源を入れて、小さな開閉式モニターで録画された映像をチェックする。四十分くらい録音されていた。お古でこれだけ持てば十分だろう。
満足してファイルを削除しようとした指が、はたと思いとどまる。
さっき結月が言っていた「人生相談」の場面が、もしかしたら映っているかもしれない。
ささやかな好奇心に誘われ、指は削除ボタンから再生ボタンへ移動する。
カメラをセットする自分の姿が映る。その人影が部屋を出たあと、画面は静止画のように変化がなくなる。画面の半分は、尚人の部屋と勇の部屋を仕切るふすまが埋めていて、その向こうに勇の部屋、部屋のさら向こうに廊下が少しだけ映る画角になっている。なにが映るかはまったく気にせずカメラを床に直置きしていたが、はからずもさっきまでふたりが座っていた場所を映していて、期待がふくらむ。早送りする。暗い部屋の映像がしばらく映ったあと、唐突に画面が真っ白になった。カメラが自動で明るさとピントを調整すると、明かりのついた廊下に勇と結月が入ってくるのが映った。全身ずぶぬれで笑っている。タオルをとったり、着替えをとったり、しばらくふたりは部屋と廊下を行ったり来たりする。
ふいに、白い裸が廊下を横切った。
画面から目をそらし、慌てて早送りする。見てはいけないものを見た気がして、心臓がバクバクする。大丈夫、一瞬だから、ちゃんとは見ていない。そう自分に言い聞かせながら、横目で画面を確認すると、着替えた結月と勇がテーブルを囲んで座っていたので、安心して再生ボタンを押す。
ふたりはなにか話しているが、カメラの位置が少し遠いので音声が聞きとりにくく、スピーカーに耳を近づける。
〈そういう作品って書いたことあるの?〉
〈遊びで書いたことはあるけど、ちゃんとはない〉
〈なら一回書いてみたら?〉
〈他人事だと思ってー〉
〈適当言ってるわけじゃないよ〉
それからもしばらくふたりは作品や、作家としての結月の今後の方向性について語る。
なんだ、そんな話か。人生相談と言うくらいだから、てっきり恋愛や就職の話かと思っていたのに。
ふたりと違って、尚人には夢というものがない。カメラは好きだが、あくまで趣味だ。小さいころから勉強はできたが、だからといって自分に特別な才能があると思ったことはないし、望んだこともない。叶う可能性の方がずっと低いキラキラふわふわした夢を大事にかかえているやつらのことを、心のどこかで子どもっぽいとバカにしてさえいた。だがそれを少しずつ現実のものにしようとしている勇や結月を見ていると、ほのかなうらやましさと、どうせ自分には理解できないという冷めた気持ちが去来する。
初めて会ったときから、結月と勇は特別だった。
高校に入学したばかりで、まだみんながお互いの相性を測り合っている時期に、ふたりの距離感は異質だった。ひとつの机に向かい合って昼食をとり、一緒に雑誌を覗きこむときには髪が触れ合うほど顔が近づく。ふたりはお互いを深く受け入れ合っていた。ひそひそと噂するクラスメイトたちの声が聞こえていないはずがないのに、恥ずかしがったりうるさがったりもしない。かといって、常にくっついていたいというわけでもなく、休み時間や教室移動のときには同性の友達と行動することも多い。群れにこだわらず、互いが必要とするときだけそばにいるふたりの関係が、なんだか大人っぽく見えた。
声をかけたら、ふたりはすんなり尚人をその輪に加えてくれた。尚人がそばに来ても、ふたりは特に尚人に気を遣う様子もなく、逆に尚人にもなにも求めなかった。親の影響でひと昔前のロックを聞いていたおかげで、勇とはすぐに打ちとけた。結月は音楽のディープな話になるとついてこられなかったが、特にそれを悔しがったりせず、盛り上がる勇と尚人の会話をBGMに本を読んでいたりする。
放課後にブルーAが練習するときは、大抵結月もついていった。尚人は部活があるので、ガレージに行けるのはテスト前の部活停止期間か休日だけだった。尚人がガレージに下りる階段の扉をそっと開けると、たまにふたりがひとつのイヤホンを片方ずつ耳に着けているところに遭遇した。
勇とふたりきりでいるときの結月は、教室にいるときよりもリラックスしている。頬杖のせいで唇や頬や目尻が変に歪んでも気にせず、あくびする口を隠す素振りすらない。尚人に気づくと、結月は笑顔を浮かべながら、顔にかかった髪を耳にかけ、小さく手を振る。そのとき尚人はとても惜しいようなことをしたような気持ちになる。
クラスでは静かな結月も、尚人やブルーAのメンバーと一緒にいるときはよく笑った。しかし勇の隣にいるときのような気の抜けた姿は決して見せてくれない。だから結月と勇がふたりきりのところに遭遇したら、しばらくは距離を保ったまま観察した。可能なら他のメンバーが来るまでそうしている。自分のせいでその表情が消えてしまうのが、寂しかった。
結月と勇はつき合っていたわけではないが、間に入りこめる者などいるはずがなかった。いくら物理的な距離が離れていようとも、ふたりは常に見えないイヤホンでつながっている。そんな気がしてならない。尚人は結月に対する自分の気持ちを自覚してから、ずっとそんなもどかしさに足踏みしている。
いつの間にか、映像の中で勇はギターを弾き始めていた。結月はテーブルに広げたスナック菓子をつまみながらチューハイを飲んでいる。それぞれが自分の世界に入っているのに、境界線がなくお互いを許容し合っている。小さな画面に圧縮されているが、結月がリラックスしきっているのはわかる。
動画はなんとなく消去できなかった。その表情を消してしまうのが惜しかった。
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