ジョー1
ロック・スプリングスに入ると、今日はスティングが流れていた。店長が結月に気づいて声をかける。
「あいつはまだだから、ちょっと待ってて」
「ガレージにいてもいい?」
「いいけど、ほこり臭いぞ」
店長がレジの横にある扉を開けてくれる。ダンボールで半分埋まった廊下を抜けると、上下に伸びる階段にぶつかる。階段を下りきったところで、記憶を頼りに壁を手でさぐり、スイッチを押す。蛍光灯がつくと目の前に真っ黒いランドクルーザーが現れた。ドアが開くだけのスペースを空けて、あとは車体が埋め尽くしている。天井もぎりぎりだ。
すみに寄せてあったスツールを勝手に使わせてもらう。車の横に座ると、自分の姿が車体の横腹に映りこんだ。
コンクリート打ちっぱなしの壁、しっとりとした空気、砂とカビのにおい。あのころと変わっていない。でも、空間は埋まっているのに、なにかもの足りないような気がした。
メジャーデビューする直前まで、ブルーAはここで練習をしていた。それぞれアルバイトがあったりするので、いつも全員がそろったわけではなかったが、毎日必ずだれかがここに来ていた。勇にくっついて、結月もよくここに来た。他のメンバーが来るまでの間、勇は曲や歌詞を書き、結月はその横で小説を書いたり、宿題をやったりしていた。あるときは片耳ずつイヤホンで音楽を聞きながら、あるときは勇のつたないギターを聞きながら。勇もメンバーも、結月を追い払おうとしなかった。
彼らがここで初めて結月に聞かせてくれたのは、学園祭でも披露したオアシスの『Acquiesce』だった。音が出そろった瞬間、ガレージの中は嵐みたいになった。アンプを通したギターとベースの音と、シャッターがビリビリと震える音とが混ざり合い、どれがどの音だかまったくわからない。まだドラムセットを持っていなかったジョーが叩く一斗缶や空き缶の音は、まったく聞こえなかった。
当時の勇はまだ歌いながらギターを弾けなかったので、その日は歌だけだった。マイクスタンドがあるのになぜかマイクはなくて、格好だけその前に立っていたのだが、勇の声は、爆音を突き抜けてまっすぐに結月に届いた。リアムの真似をして手を後ろで組み、のどを反らしたふてぶてしい姿勢で歌って見せるサービスまであった。あの瞬間、結月はブルーAのファンになった。
「おおー、ちゃんと車入ってる」
足音とともにジョーが階段を下りてきた。車を前から後ろまで見回し、それから壁や天井に目を向ける。
「懐かしー。よくこんなとこで練習してたな」
「暇さえあればここに集まってたもんね」
「上で話す? 店長が部屋使っていいって言ってるけど」
「せっかくだからここで話さない?」
「いいね」
ジョーはシャッターの前に椅子を持ってきて、地面からこぶし半分だけシャッターを開く。
「いいかな?」
タバコをくわえたジョーに、結月はうなずく。火がつくと、つんとしたにおいが鼻先をかすめた。ジョーとカールが吸うので、当時のガレージはいつもタバコのにおいがしていた。特にジョーはときどきドラムを叩きながら吸っているほどのヘビースモーカーだ。
久々に会ったジョーは、貫禄が増したように見えた。濃紺のTシャツにジーンズというシンプルな姿だが、背が高く体に厚みがあるから様になる。趣味の筋トレは今も続けているらしく、体型はバンド時代とまったく変わっていない。唇の下に逆三角形に整えたひげがトレードマークだったが、今はあごのラインに沿うような形に変わっている。見た目に反して性格は穏やかで、結月はジョーが本気で怒ったところを見たことがない。メンバー同士で意見が衝突したときには、間に入ってうまくバランスをとってくれる、めんどう見のいい兄貴分といった立ち位置だ。
「髪、伸びたね」
「そう、今までの人生で一番長いんだ」
長いと言っても、普通の会社勤めでも支障がない程度の長さだ。それを耳の後ろになでつけてある。以前はずっとソフトモヒカンだったから、そのころに比べればずいぶん長くなったのだ。
「なあ、『風見鶏が飛ぶ街』の新作はいつ出んの?」
「あ、嬉しい。あれも読んでるの?」
「そりゃ読むよ。この間、姪っ子に貸してやったらハマったみたいでさ、続きを楽しみにしてるよ」
ジョーの漫画好きはファンの間ではよく知られている。話さえおもしろければ絵にはこだわらないらしく、結月が小学生のころに読んでいた少女マンガも知っていると聞いたときには驚いた。だからジョーに結月のデビュー作を見せたときも、キラキラした表紙や挿絵にひるむことなくすんなり読破してくれた。結月がデビューしたときにはブルーAはすっかり人気になっていたのだが、たまに顔を合わせたときには必ず作品の感想を伝えてくれる。
「でも結月もだいぶ丸くなったよな」
「えぇ?」
「デビュー作とかは結構きつめのシーンがあったけど、今はすっかり王道コメディーって感じじゃない」
一瞬、視界のはしがくらんだ。
落ち着け。ジョーはただ素直に感じたことを口にしただけだ。けなされているわけじゃない。そうわかっているのに、結月の頭の中では瞬時に「王道」が「ありきたり」に変換されてしまう。
バレないように小さく深呼吸をした結月は、声が裏返らないようにゆっくり尋ねた。
「ジョーは、どっちの方が好き?」
「俺? うーん、そうだなぁ。ミアが健気でかわいかったから、デビュー作の方かな」
ミアというのは『ひとすくいの月』の主人公の名前だ。
ショックだった。
研究と試行錯誤を重ね続けてきた作品が、ただがむしゃらに書いただけのデビュー作に負けている。
でも、そう言われるような気がしていた。小説家は永遠にデビュー作を越えられない。よく言われる話だ。
そのくせ、予想と違う答えが返ってくることを期待してしまった自分が嫌になる。
デビュー作となる『ひとすくいの月』を書いていたときは、とにかく必死だった。それまで書いてこなかったジャンルへの挑戦であり、そこに自分の好きな要素を混ぜこんで成立するストーリーにしようと頭を悩ませ続けた。これを書き上げることができなければ自分はこの先、一生なにもなし遂げることはできない、そんな強迫観念のようなものに突き動かされていた。書き上げたときは、書いている自分がこんなにも楽しかったのだから、読んでもおもしろいに違いない、と妙な自信があった。
しかし、当時の最高傑作だと思っていたデビュー作がまったく売れなかったことで、結月は自分の作品に自信が持てなくなってしまった。
ものづくり、と言えば聞こえはいいが、所詮は商売だ。次を書かせてもらうために。この仕事を続けていくために。自分の書きたいものよりも、売れるものを書かなければならなかった。自分がおもしろいと思ったものが信じられず、実力も実績もない結月は、他人の作ったヒット作から学ぶことで、今までなんとか生き残ってきた。
先日のお茶会のあとから、森川くるみ作品を読み返していた。森川は『風見鶏が飛ぶ街』が『ミステリアス・スキレット』を題材にしていることにはおそらく気づいている。それでも平然と作品をほめられるということは、夕月操ごときに真似されようが、痛くもかゆくもないと思っているということだ。そう考えたら猛烈な悔しさが湧き上がってきて、なんとかして追いついてやろうと森川の作品を研究し始めた。だが物語の運びかたや言葉選びにキレに余計に打ちのめされ、そうやって落ちこんだり、やる気がみなぎったり、浮き沈みを繰り返していた。
そうして森川と自分を比べていくうちに、先日島村に言いたかったことが少しわかってきた。
ひとつ思い当たったのが『ミステリアス・スキレット』に限らず、他の作品からの影響を受けやすいということだ。
確かに『ミステリアス・スキレット』と話がかぶらないように常に意識していたし、読者はこういう展開を求めているだろうから、といった打算が入ることもあった。プロットを練るときには、頭の中では、あの小説のあの人物、あの映画のあのシーン、と例を上げることもよくある。無意識に、デビュー作で失った自信を、だれかの作品の一部をもらうことで補おうとしていたのかもしれない。それが完全に悪いこととは思わないが、借りものがあることで安心してしまった作品も、もしかしたらあったのかもしれない。結月が向き合うことを避けていた悪癖を、島村は嗅ぎ当てていたのだ。
「あれ、俺、なんかまずいこと言っちゃった?」
気づけばジョーのタバコが半分ほどになっていた。反対の手にはミントケースみたいな携帯灰皿を持っていて、ちまちまと中に灰を落としている。
「あっ、違うの。ちょっと今、仕事のことで悩んでて」
「だれか相談にできる人はいるの?」
「いる、と思う」
この状況で、島村以上の相談相手はいないだろう。島村とはあれ以来会っていないし、その前の打ち合わせに対する回答もきちんと伝えていない。近いうちに改めて話をしなければならない。
「ジョーはさ、これまで音楽やってて、絶対敵わないなって人に会ったことある?」
「そりゃ、なんと言ってもダニーだろ」
気持ちいいほどの即答だった。
「初めはさ、ダニーにあれだけ才能があんだから、一緒にやってる俺らも同じくらいの力がなきゃいけないって思ってたんだ。でもあいつは自分に才能が備わってる自覚がない。だから、めちゃくちゃ努力する。で、俺はあいつを引き立てるための力をつける方向に切り替えた」
四人の中で楽器を始めたのが一番遅かったジョーだが、メジャーデビューするころには店長やカールのお墨つきをもらえるくらいの実力に成長した。少し前には音楽番組に出演したロックの大御所アーティストの後ろで叩いているのを見たし、その後のツアーにもサポートメンバーとして帯同したらしい。そんな超がつく努力家のジョーでも、勇のことは別格に見ているのだ。
「他にも、すげーやつはいくらでもいるよ。でもさ、ダニーをそばで見てたから、もうあんまり驚かないっつーか。相手がどんなやつでも、俺のやることは変わらないし」
話すうちに照れくさくなったのか、ジョーは「って、こんなの全然参考になんないよな。小説はひとりで書く仕事だもんな」と話を元に戻す。
「ううん。なんか、ちょっと、気が楽になった」
「本当に? ならいいんだけどさ」
ジョーは火が消えた吸い殻を携帯灰皿にしまう。
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