5,紅茶の夜食と眠り

湯船で温まり、宇宙服ホラーにも心臓を削られ、ようやく自分の部屋に戻った。

木造の寮は廊下の板が時折きしみ、夜の空気が隙間から入り込む。

窓の外では虫の声が細々と続き、遠くで犬が吠えていた。

「……今日こそ寝る」

自分に言い聞かせるように呟き、布団へ倒れ込む。

枕に頬を押しつければ、ほんのり日向の匂いがして、目を閉じたらすぐ眠れそうだ。


――そのはずだった。


ふわりと、鼻をくすぐる香り。

柔らかい甘さと草木の爽やかさを併せた、不思議に落ち着く匂い。

「……紅茶?」


隣の扉が静かに開いた。

姿を現したのは咲良。

手にはティーポットとトレイを抱え、もう片方の手で扉を押さえている。

夜着のままでも背筋が伸びていて、柔らかな表情はどこか年上めいて見えた。


「こんばんは。眠る前に一杯、どう?」

彼女の声は湯気のようにやわらかく、抵抗する前に心をほどいてしまう。



---


紅茶の部屋


咲良の部屋に足を踏み入れると、まず空気が違った。

淡いスタンドの光がカーテンに反射して、緑色の布の上で優しく揺れる。

机には茶器がきれいに並び、白い陶器の縁をランプが照らしている。

「今日のブレンドはカモミール。リラックス効果があるの」


ポットから注がれる琥珀色の液体。

カップに波紋を広げながら、花畑を思わせる香りが立ちのぼる。

「……いい匂いだ」

素直に口から漏れる。


「お茶請けもどうぞ」

皿には、小ぶりなスコーンときゅうりのサンドイッチ。

夜遅くでも胃に重くならないよう気を配った品だろう。

「夜は体を休ませる時間。香りで落ち着かせ、優しい食べ物で眠りを迎えるの」

説明しながら笑う咲良は、まるで家庭的な寮母のようだ。


スコーンをひと口かじると、表面のさっくり感と中のしっとり感が混ざり、バターの香りが口いっぱいに広がった。

紅茶で流し込めば、温かさが喉から胸へと広がり、さっきまでの疲労が溶けていく。


(……なんだろう、この安心感。俺、今日から天才変人だらけの寮生活に放り込まれたんだよな? なのに今は、やけに普通で、優しい時間が流れてる)



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次々と訪問者


「いい匂いする〜!」

元気な声とともに彩音が顔を覗かせた。

タオルで髪を拭きながら、浴衣姿のまま部屋に入ってくる。

「葵君もいたんだ! わぁ、夜食会?」

「……会ってほどでもないけどな」

「彩音ちゃんもどうぞ」

咲良がさりげなく椅子を引いて勧める。


彩音は嬉しそうに腰を下ろし、カップを両手で包み込んだ。

「ん〜、落ち着く。今日ほんと色々あったし」

頬を染め、幸せそうに目を細めるその仕草に、僕の胸が少しだけどきりとした。

(……やっぱ、彩音は普通に女の子なんだよな。昔の幼馴染っていう安心感に隠れてたけど)


「紅茶抽出アルゴリズム、試運転開始!」

重低音が部屋を震わせた。

視乗のロボがガタガタと現れ、銀色のアームでティーカップをつかもうとする。

「やめてっ! ロボに淹れさせるのやめて!」

僕が叫ぶより早く、咲良が微笑みながら手を伸ばした。

「ありがとう。でも紅茶は、人の手で注ぐから香りが完成するの」

「芸術は挑戦よ!」

「今は芸術より休息を優先しましょう」

視乗は口を尖らせつつも、紅茶を一口啜ると目を丸くした。

「……くっ。確かにおいしい。だが改良の余地はある!」

ノートを取り出し、ロボにメモさせ始める。

(この人、寝る気ないだろ……)


「……異常なし」

最後に現れたのは暁。

いつの間にか背後に座り込んでいて、すでにカップを手にしている。

無表情で香りを確かめ、ゆっくり口に含む。

「……剣の後に良い」

「おまえ夜も鍛錬してたのか!? 風呂出たばっかだぞ!」

「鍛錬に終わりはない」

「せめて寝ろよ!!」



---


団らん


部屋は紅茶の香りと人の声で満ちていった。

彩音はサンドイッチを頬張りながら「おいしい!」を連発し、視乗はロボに「角度をメモして!」と指示を飛ばし、暁は表情一つ変えずに二杯目を飲む。

咲良はそんな全員を見守りながら、穏やかに笑みを浮かべていた。


「こうして紅茶を囲むとね、不思議と心がひとつになるの」

「……確かに、さっきまで俺、宇宙服に心臓潰されそうになってたのに。今は落ち着いてる」

「香りが人を調律するのよ」

咲良の言葉はさらりと響き、どこか説得力を持っていた。


(芸術科の天才って、やっぱり感性が桁違いなんだな……。俺だけ普通でいいのかって思うけど、まぁ……悪くないかもしれない)



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眠りへ


気づけば夜は更け、窓の外では虫の声も止んでいた。

湯気も消え、ポットは空になっている。

「そろそろ休みましょうか」

咲良が食器を片づけ始める。


彩音はあくびを隠しながら立ち上がり、視乗はロボを連れて不満げに去り、暁は「……異常なし」と呟いて部屋を出た。

最後に残った僕に、咲良は静かに言った。


「おやすみなさい」


その声は、カモミールの香りと同じように甘く、眠気を優しく誘った。

布団に戻った瞬間、まぶたが重く落ちる。


(……悪くない。むしろ、ちょっといいかもしれない)


さよなら、僕の安らぎ――。

いや、少しずつ戻ってきているのかもしれない。




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