第1話 出会いと救済

雨に濡れたアスファルトの匂いが鼻を突く。

匡は工場からの帰り道、傘もささずに夜の街を歩いていた。頭の中では、数字ばかりがぐるぐると回っている。赤字、借金、未払いの請求書。銀行に頭を下げても、返ってくるのは冷たい言葉だけだった。


「もう……終わりか」


口の中に苦い笑いがこぼれる。十年続けてきた会社も、家族同然の従業員も、守る力を持たなかった。あれだけ必死に働いたのに、残されたのは虚無感だけだ。


足元に水たまりが広がる。立ち止まった瞬間、視界の端に何かが映った。暗い路地の奥、人影が倒れている。


「……おい、大丈夫か?」


近づくと、それはまだ若い男だった。細い身体がびしょ濡れになり、冷たい地面に横たわっている。呼吸はかすかに浅く、唇は青白い。


「こんなところで寝てたら、死ぬぞ」

「……放っておいていいのに」


弱々しい声。睫毛の影から覗いた瞳は、妙に澄んでいた。


「俺なんか、誰にも必要とされない」


匡の胸に、痛みが走る。必要とされない——それは今の自分と同じ言葉だった。


「……少なくとも、俺は目の前で死なれるのは御免だ」

「……優しいんだね」


青年はふっと笑った。その笑顔はひどく寂しげで、匡はなぜかその場を離れられなかった。




青年を無理やり立たせ、自分のアパートに連れて帰った。古びたワンルーム。机の上には未開封の請求書の束が山積みになっている。


「すまないな、こんなところしかなくて」

「……充分。雨風がしのげるなら」


青年は力なく答え、濡れたシャツを脱ごうとして指先を震わせた。その瞬間、指先が紙の角で切れ、赤い血が一滴、床に落ちる。


匡は慌ててタオルを差し出した。だが、血を吸った布が、かすかに金色の光を放ったのを見て、息が止まる。


「……今の、なんだ?」

「見たまんまだよ。俺の血は、普通じゃない」


青年は目を伏せた。


「検査を受けたことがある。体液に微量の金属が含まれてるって。

医者には『原因不明の異常体質』とだけ言われた」

「そんな……」


匡は半信半疑で、こぼれた血を試験管に集め、翌日工場の分析機にかけてみた。結果は現実だった。金属加工に使えるほどの高純度の希少金属が、血液から検出された。


頭の中で、様々な可能性が閃く。借金の返済、会社の再建、従業員の笑顔。全てがこの血から生まれるかもしれない。

だがすぐに打ち消す。「そんなこと、できるはずがない。これは人の身体なんだ」


その夜、匡は青年に問いかけた。


「……お前、名前は?」

「蓮」

「蓮……帰る場所は?」

「ない。……俺なんか、生きてても仕方ない」


胸の奥が締め付けられた。蓮はそう言いながらも、どこか救いを求める目をしていた。


「俺を……使ってくれないか」

「使う……?」

「この体は気持ち悪い。でも、役に立てるなら……生きてる意味になる」


匡は迷った。利用すれば自分も救われる。だが、彼を道具にすれば、人としての境界を越えることになる。


沈黙の末、言葉がこぼれた。


「……使わない。俺はお前を守る」


蓮はわずかに目を見開き、そして小さく微笑んだ。その笑みは、雨上がりに差し込む光のように脆く、眩しかった。

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