17.「夜更け」
夜の帳が下りていた。
男子寮の自室に戻ったスグルは、窓を開け放ったまま、机に肘をついて外を見る。
夕方の騒ぎが嘘のように、外は静かだった。
寮のどこかで馬鹿騒ぎをしている部屋があるようで、ザワザワした声と、寮監が注意する声も聞き取れる。
静まり返った一人の部屋が、やたらと広く感じられた。
今日の暴走。
久しぶりに制御を失うほどの勢いだった。
呪文を間違えたのか、媒介が今ひとつのせいか——ほんの少しの自分の揺らぎが、暴発を引き起こすことになるとは。
(……やっぱり、まだ安定しないんだな)
入学してから二ヶ月、暴走した事は二回しかなかったし、いずれも黒魔法の教師が傍にいたから、すぐに対処された。
それ以前の自分を思えば、奇跡のような安定だった。
入学前は幾度となく魔力を暴発させ、気絶するまで暴走し、周囲に被害を出した事もある。
監視員の介入が日常で、緊張して暮らすのが当たり前だった。
それが、このところはすっかり油断していた。
身体が成長すればキャパシティも増えるというが、それを期待するにはスグルの身長の伸びは芳しくなかった。
ならば技量で補うしかないが、膨大な魔力を制御するという鍛錬は、気が遠くなるほど難しく、一朝一夕とは行かない。
深呼吸をしても、肺の奥に残る焦げたような陰鬱な匂いが消えない。
暴走の感覚が、まだ生々しくスグルの全身にこびりついている。
そして、脳裏には、手を伸ばしてきたサクラの姿。
あの時、彼女は逃げなかった。
黒魔法が暴発した瞬間に逃げ出すのが普通だ。
先生だって、遠くから制御しようとする。
それなのに、彼女は逆に、近づいてきた。
止めようとした。
手を伸ばしてきて、腕に、触れた。
(なのに、何も起こらなかった……)
普通なら、触れた瞬間に怪我をしていてもおかしくない。
暴走中の魔力は刃そのものだ。
けれど、彼女の腕も、身体も無傷だった。
むしろ、あの瞬間——暴走が、止まった。
白い花を咲かせて。
「……冗談じゃない」
呟きながら、スグルは乱れた前髪をかきあげる。
机の上に、花びらがふわりと落ちてきた。
頭の花はむしり落としたはずだが、残っていたらしい。
指先で触れようとすると、ホロリと溶け消えた。
(やっぱりこれは、創造魔法、なのか?)
まさか。
一年で、あんな、治癒魔法もまともに使えないやつが。
そうだとしても。
暴走を止める創造魔法なんて聞いた事もない。
創り出す魔法であって、何かを増幅させたり、制御したりする魔法ではない。
少なくとも、歴史上では。
それとこれとは、別なのか?
リリーバレーの魔法は、なんなんだ?
あの時、あいつが逃げていたら。
あの花が咲かなかったら。
色々、吹き飛ばしていたかもしれない。
傍のあいつも、近づいてきていたネモという監督生も。
スグルは一度深呼吸し、椅子の背にもたれた。
背中を伝う冷たい汗を、もたれた部分からじわりと感じる。
(……逃げなかった)
信じられない。
怖いはずなのに。
なのに、あんな顔で——。
思い出すのは、あの一瞬の表情。
まっすぐな目。
すがるためじゃなく、自分の意思で、助けたいと手を伸ばしてきた顔。
目尻が熱い。
「……バカだ」
そう言いつつ、声の奥には、怒りでも呆れでもない、何か柔らかいものが混じっていた。
窓の外に視線をやる。
学園の塔の上に、月が浮かんでいた。
風に揺れる木々の隙間から、女子寮の灯りが見える。
あのどこかに、今も彼女がいる。
腕に触れてきた手の温もりが、まだ僅かに残っていた。
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