逆張り英雄〜祈らない天才少女と、非殺傷の逆張り少年〜

ヤシさ

第一章:追放

第一話:正しい戦いの敗北

冷たく硬質な校長室の空気の中、

壁に並ぶ歴代校長の肖像画が二人を断罪するように見下ろしていた。


「——バドル。君は、自分が何をしでかしたのか、理解しているのかね」


静寂を破ったのは、校長の低い声だった。

その問いは答えを求める儀式ではないことを、バドルは理解していた。


「サンサルを守っただけです」


バドルは、背後に回した両の拳を固く握りしめ、

背筋を伸ばしたまま、まっすぐに校長の目を見て答えた。


声に震えはない。


隣に立つ少女サンサルはゴクリと息を呑み、ローブの裾を強く握りしめた。

その肩が申し訳なさそうに小さく震えている。


校長はため息ともつかぬ息を細く吐き出した。


「守った、か。結構なことだ。

だが、その結果、我が校の生徒が一人、

大聖代の治療室送りになった。

これについてはどう思っているのかね?」


治療室。その言葉が、バドルの記憶の扉をこじ開けた。

脳裏に蘇る。血の味、骨の軋む感触、


そして、自らの信念を踏み砕いた、あの日の熱。


……そうだ。あの日、

俺は、俺の全てを裏切ったのだ。


◇◇


いつものように授業が終わり寮へ向かおうとした時、

魔法演習場の方から獣の群れのような下卑た笑い声が聞こえた。


野次馬が厚い壁を作り、好奇と軽蔑に歪んだ顔で

中心で起こっている何かを「鑑賞」している。


バドルは人垣をかき分け、その光景を直視してしまった。


そして、息が止まった。


「——ほらよ、穢れた反逆者の娘にピッタリの食事だ! ありがたく食えよ、虫ケラ!」


リーダー格の男が叫び、泥と混ぜられた残飯が少女の頭にぶちまけられる。


地に膝をつかされていたのは、サンサルだった。

クラスは違うが、その名は知っていた。

腰まで伸びる黒髪と、この世の理から外れたような不思議な雰囲気を持つ少女だ。


彼女の魔導書は見るも無惨に破り捨てられて泥水に浸され、

数人の男子生徒が嘲笑を浮かべて彼女を取り囲み、代わる代わる蹴りつけていた。


「おい、泣いてんのか? 無神教徒は祈る神もいなくて大変だなあ!」

「闇魔法なんて禁忌を使うからだろ! お前の親みたいに、お前も『浄化』されたいのか?」

「その黒髪も、その淀んだ目も、全部呪われてんだよ! 近寄るな、汚物がうつる!」


言葉の暴力は、さらにエスカレートする。

火の魔法でローブの裾をじりじりと焦がし、水球を顔面に叩きつける。

彼女の杖は取り上げられ、リーダー格の男が戦利品のように掲げていた。


何よりバドルの心を抉ったのは、周囲の野次馬の反応だった。

誰も助けず、ただこの陰惨な見世物を楽しんでいる。

「もっとやれ」「気味が悪いんだよな、あいつ」

そんな声すら聞こえてくる。

その無数の視線は、サンサルという『異物』を排除しようとする、

冷たい刃物のような悪意の集合体だった。


バドルは動けなかった。


——ギリッ、と奥歯が鳴る。

握りしめた拳の中で、爪がじくりと肉に食い込む痛みだけが、かろうじて彼をその場に繋ぎ止めていた。


彼の信じる「プラタノ教」の教えが、頭の中で警鐘を鳴らす。


——汝、故なく争うことなかれ。

——汝、故なく命を奪うことなかれ。


殺傷は嫌いだ。

だが、目の前の光景は「争い」ですらない。


ただの、一方的なリンチだ。


リーダー格の男が、飽きたようにサンサルの髪を乱暴に掴み、

無理やり上を向かせた。


その時、バドルは見てしまった。

彼女の瞳に浮かぶ、色のない絶望と、全てを諦めきった諦観と、

そして、その奥の奥にほんの僅かに灯る——助けを願う祈りのような光を。


その瞳から、一筋の涙が汚れた頬を伝う。


——プチリ、と。理性の最後の糸が切れた。


どうしようもない。

この異端を娯楽として消費する閉鎖された社会が。

それを前に足をすくませていた自分自身が。


どうしようもなく、許せなかったのだ。


「——やめろよ」


今まで抑え込んでいた息が、熱い塊となって喉から漏れ出た。

呟いた声は、誰の耳にも届かない。


だから、バドルは走った。


ポリシー? 信念?


そんな高尚なものは、少女の涙一粒の重さにも満たなかった。


——ドンッ!

バドルは野次馬の壁に体当たりで風穴を開け、

リーダー格の男の口元めがけて、


魔法ではない、関節が白くなるまで握りしめた拳を全力で叩き込んだ。


ゴッ、と生々しい音が響き、男の巨体がぐらりと揺れる。

受け身も取れず、男はそのまま背後に倒れ込んだ。


ゴンッ、と。後頭部が石造りの花壇の鋭い角に叩きつけられる、

さらに鈍い音が響いた。


野次馬の中から、誰かの短い悲鳴が上がる。


リーダー格の男は、白目を剥いて完全に意識を失い、

その後頭部からじわりと血が流れ出すのを、バドルは見てしまった。


演習場の空気が、完全に凍りつく。


「て、てめぇ…何しやがんだ…!?」

残ったいじめっ子の一人が、震える声で叫んだ。


「うるせえ!!!」


バドルは獣のように吠えた。

恐怖も計算もなかった。

彼はサンサルを庇うように立ち、奪われていた杖をその震える手に握らせると、

憎悪を込めていじめっ子たちを睨みつけた。


そこから先は、ただの乱闘だった。

魔法の才能も魔力量も平均以下のバドルに、勝ち筋など本来はない。

だが、なりふり構わぬ突撃と、

守るべきものが背後にあるという覚悟が、

数の差を埋めた。


殴られ、蹴られながらも、バドルは倒れなかった。

一人、また一人と殴り倒し、ついに全員を地面に転がせたのだ。


息が切れ、全身が痛み、口の中に鉄の味が広がる。


勝利、だった。


真正面からの暴力で、彼は悪を打ち倒し、少女を救ったのだ。


物語の英雄のように。


だが、そこに爽快感はなかった。

ただ、自らの信条を破った罪悪感と、虚しさだけが残った。


振り返った先に、サンサルがいた。

呆然とした表情で、ただこちらを見ている。

その瞳に感謝の色はない。安堵もない。

読み取れない感情が揺れているだけだ。


それでも、彼女は泣いていた。

取り戻した杖をきつく、きつく握りしめながら。


ああ、そうだ。

これが英雄ごっこの結末だ。

救ったはずの少女を巻き添えにして、退学。


あまりに皮肉な幕切れが、今まさに下されようとしていた。


◇◇


「……どうした、バドル君。聞こえなかったかね?」


校長の言葉で、バドルは現実へと引き戻される。

俺は戦った。正しいと信じて、真正面から拳で戦った。


その結果が、これだ。


一人の生徒を病院送りにした乱暴者。

助けたはずの少女を道連れにした共犯者。

そして、学校の秩序を乱した、退学者。


これが、「正しい戦い」の果てに手に入れた、俺の全てだった。


バドルの口元に、初めて笑みが浮かんだ。

それは唇の片端だけが歪に吊り上がったような、

全てを悟った者の、冷え切った笑いだった。


それまで固く握りしめていた拳が、ふっと力を失って開かれる。


「……思っていること、ですか。校長」


彼の声は静かだった。だが、その瞳の奥には、氷のような光が宿っていた。


「——正攻法なんて、クソ喰らえだ。それだけですよ」

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