第7話
真理子の打ち明け話🌙🏡
僕は、今日の授業も仕事も終えて、いつものように家で、夕食を作り、今夜はどんぶりもんが食べたくなったので、親子丼を作って食べた。その日に食べるものは、その日の自分の腹に聞く。食後の食器洗いを済まして、リビングで、CDでマイルスの「ザマンウィズザホーン」をかける。再起不能と言われながら、復活を見事に遂げたマイルスの記念すべきアルバムだ。珈琲を飲みながら、煙草を吸う。今週の仕事は首尾よく終えて、腹も満たして、食後の珈琲旨し。音楽も良し。最近、また凝って吸っているガラムの香りもフィルターについた甘い味も食後のスィーツの如く格別。至福の時間だ。僕は、真理子が赤いブックカバーをつけて僕に持っていて欲しいと言って渡した文庫本の『純粋理性批判』の超越的感性論の項を読んでいた。空間と時間は、客観でなく我々の主観が出現させた観念的表象であるという。しかもそれは、直観のアプリオリ形式だという。そのことを頭の中で順序づけて確認、実証し始めた時、玄関でチャイムが鳴る。時計を見ると九時をちょっと回っている。この時間の唐突な来訪者というのは、いない。誰だろう?と思いながら、玄関に行く。
「はいっ?どなたでしょうか?」
返事がない。怪しいなぁーと思う。
「なんですか?!」
とちょっと強い口調で言う。やはり、返事はない。ピンポン鳴らしているので、玄関を開けてみると誰もいないというようなイタズラがたまにあるからな。僕は、用心しつつ玄関のドアを開けてみる。すると、そこに真理子が立っていた。
「おい。真理子。どうしたんだよ?」
と僕は、思わず言う。声を出さずただ泣きじゃくっていて、体を震わせている。あまりにも、哀れで可哀想な様子なので、僕は、真理子を抱き締めずにはいられなかった。抱き締めているうちに、体の震えがおさまる。僕は真理子を両手で抱き上げて、居間の長ソファに寝かせた。玄関の鍵を閉めて、キッチンに入って、ウィスキー、イチローズモルトをショットグラスに注いで、チョコレートと一緒に居間のテーブルに置く。マイルスがトランペットを吹いている。バックシートベティというナンバー。
真理子は、裸足だった。真理子は、裸足で震えて泣きながら、車を運転し、ただ黙って、真理子の傍に座って、彼女の頭を撫でている。やがて、真理子が自分で起き上がるまで。
真理子が起きると僕は、真理子の口元にチョコレートを差し出した。真理子がそれを食べ終わったところで、ウィスキーのショットグラスを渡す。真理子は、それをひといきに飲んだ。僕は、落ち着いて平常に戻った真理子を見てホッとしている。ああ、よかった。可哀想な真理子じゃなくて、可愛い真理子に戻った。
そのうち、真理子がポツリ、ポツリと話し始める。それは、彼女の身の上話というものだった。前回の彼女の訪問で、僕は、彼女に求められて、僕の身の上話をした。今日は、その逆だなと思う。お互いを深く理解し合うめには、必要不可欠なことであると思う。
大学の学友も含めて、彼女の友人は、真理子は、自立を目的に、両親から、地元でマンションを借りて一人暮らしすることを許されている。そして、そこから通学している。そう思っているが、それは全くの虚偽で、作り話だ。ある日都内で友人の娘の結婚式に参加した後、両親は、高速道路を家が近づいたところで下りて、家に向かってバイパスを走っていた。夜のバイパスは車が空いてきたところで、スピードを上げて走る車が多い。昼でも、ここは高速道路ではありませんと言いたくなるほど飛ばしている車もある。突然、タンクローリーが対向車線から入ってきて、真理子の両親が乗った車は、その高速で走っていた大型車と正面から激突をした。タンクローリーの運転手は、居眠り運転だったらしい。二人は、即死であった。
真理子は、予期もせずある日突然襲われた不幸な事故で、両親を失い、底知れる絶望感と喪失感、孤独に襲われ、それに苛まれることになる。一方、保険金や慰謝料、両親の財産を含め、多額の財と真理子が両親と暮らしてきた自宅だけが真理子に残された。彼女が大学入学後の六月の事である。それは、彼女の自宅で、真理子が父と母の思い出を手繰るようなことがあると、両親の車がクラッシュする場面から始まって、彼女の思考の中で、彼女の日常がグラグラと歪み始め、深海の底に落ちていくようなイメージが彼女を支配する。その不分明な闇に彼女は、恐怖を覚える。汗が噴き出てきて、涙が流れ出し、息苦しくなり、呼吸が乱れ、身体が震え始める。精神科や神経科にかかるとパニック障害と診断される。抗うつ剤を処方される。真理子は、それで、両親の思い出が詰まったその家を出ることにした。それで今の生活が始まった。マンションは、借りマンションではなく、自宅の家土地を売りに出した金で買った。
真理子は、彼女を繰り返し波のように襲うパニック障害の兆しの不安や恐怖から逃れるため、一時期、男子との性的交際に逃れた。しかし、性的快感の中で、不安は、消え去るものの、軽薄な男子を心で嫌いながら、ますますそこに依存していく自分に嫌気がさすのである。真理子を苛む孤独感、喪失感、恐怖に自己嫌悪が加わることになる。そうなると、自分が完全に崩壊し、終わるような不安と恐怖が芽を出し、真理子は、その日々に縁を切った。完全に。
真理子を救ったのは、イマヌエル・カントだった。『純粋理性批判』。謎解きのように、その難解な文章を理解し、自分の哲学思想に組み込むことに没頭した。そうすることによって、真理子は、平常心を保てるようになったのである。それは、勿論、真理子自身が哲学者を尊敬し、哲学というものを愛していたからに他ならない。ようやく、真理子の生活は、平穏に向かう。彼女の中に、蒼白く氷河のように硬く凝固した喪失感を核とする不分明なものを深く沈めたまま。
なんて、ショッキングな話なんだ。悲しいなんていう話じゃない。真理子がそんな人知れぬ痛みと苦悩を抱えて生きてきたとは、僕は想像もつかなかった。僕は言葉を失くした。真理子は、全てを話し尽くして、心が楽になったのか、放心状態になっている。僕は、真理子の肩を左手を回して抱いて言う。
「君は、人にはわからないような重い荷物を一人で背負って、ここまで来たんだね。よく頑張ったね。真理子。君は本当に強いよ。もう大丈夫だよ。何も君のことを壊せはしないさ。ほら、僕は君がくれたカントを読んでいたんだ。君のお守りは僕も持ってる。空間と時間は、人が主観的に作りだしたもんだ。街を作り、時計を造った。僕と真理子がこうしているようにして、それは太古から直感的に人類が有している。」
そう僕が言うと、真理子は、僕にしがみついて、僕の胸に顔を埋めて、ウォ!ウォー!と獣が吠えるように大声で泣いた。
真理子。君は、もうひとりじゃない。なにがどうあっても、どうなっても僕は、君の傍に必ずいる。そう僕は思った。
それから僕たちは一緒に風呂に入り、頭や身体を互いに洗い合った。まるで小さな子供の兄妹のように。そして、風呂から上がってバスタオルで身体をふいて、冷蔵庫から、5五百ミリリットルのペットボトルの水を持って、裸のまま2階に上がり、僕のベッドに寝転んだ。僕は、ちょっと起きて、コルトレーンの『バラッド』をターンテーブルに置いて、リフレインでかける。灯りを全て消すと、庭の高い木立の間から差し込む月光が僕らを照らしている。
「こういうのを超越的原理っていうのかな?」
と僕が言うと、真理子が笑う。そして、月もまた微笑む。青いパパイヤと熟きったバナナが仲良く横たわっているのを遠く眺めて。
🌙🏡
その美しい夜に、真理子が僕を抱いた。
☀️🏡
翌朝、鴉の鳴き声に起こされた僕は、下に降りて行って、全ての雨戸を明け、珈琲とジュース、トーストとヨーグルトという簡単な朝食を作って、真理子を起こして、食べさせた。真理子は、昨日、家に訪れたときとは、別人に代わっていた。重い枷が溶けて、解放された感じ、いつもの真理子に戻っただけでなく、自信を身につけて、朝の光の中で、輝きをましていた。僕は、思う。昨日、真理子を襲ったパニック障害は、もう二度と真理子を苦しめることはない。昨日、真理子は、それを克服し、超越した。そして、僕は、真理子の家族に、真理子は、僕の家族になったんだ。朝食がすむと、僕は、真理子を彼女の家(マンション)まで、送り、真理子は、今日の授業道具を入れた鞄を持って、また出てきた。その真理子を駅まで送って、
「いってらっしゃい。今日も頑張って。授業終わって、帰ったら、連絡しろよ。そして、車をとりに来いよ。」
真理子の車は、僕の家の森の空き地に昨日の夜から、停めたままだ。
「行ってきます。ありがとう。」
と言って、僕にキスをして、真理子は、車を降りて、軽い足取りで駅に向かった。今日も今日の哲学の課題が真理子を待っている。
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