第15話

 午後は昨日と同じように、黙々と文献の精査に当たることになったのだが。

「ねえ、これってさ。ひょっとして……」

 エリィの呟きに、スーと黒犬は頷く。

 エリィは被害のあった集落の場所を、順番に指でなぞっていく。ここ七十年ほどの間は、王国の各地で被害が起こっている。一番多いのは中央部だが、北部や南部でもちらほらと記録が見つかる。

 それが七十年前を境に、様子が変わる。中央部での被害がぱったりと途絶え、南部での被害が三件連続で続いている。

「九十年前もそうだね。なんか、この辺りを中心に被害が出てる感じがしない? バルデュラの森って読むのかな」

 スーが呟くと、エリィはなぜだか目を逸らす。

「おい、魔女。たしかお前は南部の出身だろう」

 エリィは黒犬を鬱陶しそうな目で見る。

「昔は綴りの通りバルドゥラって呼んだらしいけど、今はバルドラって呼び方が普通」

「そのバルドラの森に何かあったりする? 地図を見る限り、集落なんかは見当たらないけど」

「……別に何も。魔物がうじゃうじゃいて薄気味悪いけど、それ以外は何の変哲もない普通の森だし」

「魔物がうじゃうじゃってだけで普通じゃない気がするけど……それとも、南部ではそれが普通なの?」

「うんまあ、ここらより暑いから虫みたいなのが多いっていうか。そんなことより、文献読みましょ? まだこんだけあるし、急がないと日が暮れちゃう」

「う、うん」

 さらに資料を遡っていくと、少しずつバルドラの森から離れた土地での被害が増えていく。

「もっと南に向かってる……?」

「そのようだな。二十年ほどかけて内陸部から沿岸部へと、緩やかに南下し続けている」

「百十五年前の記録なんて、もう南の果ても果てじゃない。そうすると、そのさらに五年前は……?」

 しかし、そこで記録は途切れていた。百二十年前の資料にも百二十五年前の資料にも、それらしい被害の記録は見出せない。

「ここが行き止まり、なのかな」

「記録上は百十五年前が一番古いけど、あくまで記録上の話よね。これまでの傾向をふまえれば、百二十年前の被害地はこのへんじゃない?」

 エリィは言いながら、指を地図の上の海に押し当てる。そこには王国の版図と比べれば豆粒のような大きさの島々がいくつも浮かんでいる。

「ねえ、黒犬。あんまり教養がなくて申し訳ないんだけど、今エリィが指差してる辺りは王国の一部なの?」

「俺も詳しくはないが、その一帯は群島諸国と呼ばれる地域だろう。交易は行われているが、こちらと文化的な繋がりは薄いと聞く」

「てことは、こういう記録文書は残ってない?」

「教会の管轄外の地域である以上、体系的にまとめた文書はないだろうな」

「そっか……」

「個人がまとめた文書ならば見つかるかもしれんが、信憑性は落ちるな。おい、魔女」

「な、なによ。あたしも海の向こうのことなんて知らないし」

「聞きたいのは、海ではなく森のことだ。先ほど、バルドラの森のくだりで何か言い淀んでいただろう。一体その森に何がある?」

「な、なんだっていいじゃない。影の女王とは何の関係もないでしょ」

「でもたしかに、この森の周囲で被害が四件続いてるし、森自体に何かあるって考えたほうが自然じゃない? 何か知ってることがあるなら、できれば教えてもらいたいんだけど」

「……」

 エリィは眉間に皺を寄せて俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げる。

「スー、顔こっちに寄せて。あんたも」

 エリィはふたりをすぐ傍まで寄せると、蚊の鳴くような声で、

「……うちの地元なの」

「うちの地元?」

「魔女の里か」

 エリィは黒犬を悪鬼のような形相で睨む。

「声、落として! 里の場所をばらしたなんて知れたら、お母様に殺されちゃうから! 特に、あんたみたいな魔物狩りには絶対……」

「安心しろ、俺は魔物狩りじゃない。しかし、魔女の里か。また厄介なものが絡んできたな」

「別に、普通の田舎の集落だけどね」

「人の臓物で薬を作ったりしてるのだろう?」

「してないっての! 少なくとも、あたしの知ってる範疇では」

「あのー、初歩的な質問で恐縮だけど、そもそも魔女って何なの? 魔術師とは違うものなの?」

「同じ同じ。こういう魔物狩りだか魔物狩り崩れだかみたいなやつが、勝手に魔物の一種みたいな扱いしてくるだけ。ほんと、失礼しちゃう」

「少なくとも、我々と同じような人ではない。かつては人だったのかもしれんが、呪いの力を追い求めるうちに人の世の理を外れた存在。それが魔女だ」

「魔女ってことは……村の全員が女の人なの?」

「普通にお父様も弟もいるよ。呪いの力は女性により強く受け継がれるから、魔女って呼び方をされるだけ。里出身の有名な魔術師も大体女の人だしね。中でも一番有名なのが、あたしのおばあ様」

「ああ、薬師だっけ?」

「薬師だと?」

 露骨に驚いた様子を見せる黒犬を、スーは意外そうに見やる。

「知ってる人?」

「五十年ほど前、北部で蔓延していた疫病を、ひとりの魔女が鎮めてみせた。彼女は呪術と薬学の知識を用いて、貧しい村々の住民を治癒して回ったという。彼女が書いたという薬学の書は、俺も読んだことがある」

「へえ、そんなすごい人なんだ」

「しかし、お前が薬師の孫だと?」

 エリィは、黒犬の疑惑に満ちた視線を不服そうに受け止める。

「何が言いたいかはわかるけれど、ほら、これ見てごらんなさいよ。あんたも原書を読んだなら知ってると思うけど、おばあ様の字って結構特徴的でしょ?」

 エリィは懐から取りだした一枚の紙を、黒犬の手元に差しだす。

 黒犬は受け取った紙をまじまじと見つめる。

「……薬師の字だな。昔、王都の図書館で、これと全く同じ筆跡の書物を読んだ」

「見せてもらっていい?」

 それは角ばった、装飾的なところは欠片もない、読むことができればそれでいいといった風情の文字だった。聡明で頑固な老教師。そんなような人物像をスーは想像した。

 

 我が孫娘エリンデルへ


 カルスはそろそろ日が長くなってきた時節でしょうか。――ちゃんとカルスに到着できてる? つまらない詐欺にひっかかって無一文になったりしていない?

 紙面に余裕がないので――この地で紙は貴重品なの――手短に伝えますが、あなたの課題を変更することにしました。

 つい先ほど、カルスから見て北西のサグの村が影の女王の襲撃を受けたとの報を受け取りました。村人のほとんどが彼女の牙にかかりましたが、領主の一人娘だけは一命を取り留めたそうです。あなたの新しい課題は、彼女を保護することです。

 私もこれからカルスに向かいますが、どれほど急いでも半月以上はかかることでしょう。私が到着するまで、命を賭す覚悟で彼女を守りなさい。もしものときのために教えておいた、カルスで一番安全な部屋を使うといいでしょう。

彼女を守り切ることができれば、誰がなんと言おうと、あなたは一人前の魔女です。逆に守り切ることができなければ、私と私の親友が、あなたを未来永劫の果てまで呪い続けることとなるでしょう。

くれぐれも体に気をつけて。里と違ってカルスの夜は冷えますよ! 日中暖かいからといって薄着で寝ないように!


「ほら、たいしたこと書いてないでしょ?」

「たしかに簡潔な手紙だけど……この親友っていうのは?」

「たぶん洒落じゃない? おばあ様自身にしかわからない類の。あの人、そういうの好きだから」

「ふうん、洒落……」

 私と私の親友が呪う。字面だけ見ると、エリィの祖母とその親友は随分と自分の身を案じてくれているように思えるのだが。


「ふーん、じゃあようするに行き詰ってるわけだな」

 リックはパンをちぎってスープに浸しながら言う。夕食を摂るのはいつも店が閉まった後の、夜もだいぶ更けた頃だ。

「まあ、そうだね。そっちは?」

「わっかんねえな」

「わっかんないの?」

「だって何も教えてくれねえんだもん。探してきた本を読んでみても、俺には一文たりとも理解できないような内容だし。ああ、でもひとつわかったことがあるな」

 リックはにやりと笑い、きょろきょろと辺りを見回す。

「女将さんなら水汲みに行ってるでしょ」

「だよな。いやさ、たぶんあの兄ちゃん、女将さんに気があるんだと思うんだよ」

「どういうこと?」

「だって、やたら女将さんのこと聞いてくるんだぜ。どこの出身だとか、この店はいつからやってるんだとか」

「へえ。なんか意外」

「ああ見えて、結構な軟派野郎なのかもな。王都からやってきたって話だし」

「別に都会の人なら軟派野郎ってわけではないでしょ。でもリック、女将さんの出身地とか知ってるの?」

「うんにゃ。前聞いたけど、はぐらかされちまった」

「実際、どういう出自の人なんだろうね? なんていうか、あんまりこういう……」

「しけた飯屋?」

「そういう言い方をするつもりじゃなかったけど、こういう店の女将って風の人じゃないのはたしかだよね」

「世を忍ぶ仮の姿って感じだよな」

「そうそう、そんな感じ。ひょっとしてリック、何か知ってる?」

 尋ねると、リックは意味ありげに視線を逸らす。

「なんか知ってるなら、教えてよ。わたしだって女将さんのこと、知りたい」

「どうっすかなー」

「わたしたち、もう親友でしょ」

「そうか? まあ、そうかもな」

 リックは納得した顔で天井を見上げる。

「あいつ、耳良さそうだよな。犬って名乗るくらいだし」

「別に自分で名乗ったわけじゃないけどね。まあでも、黒犬はいいんじゃないの? 口は固いほうだろうし」

「世間話とかしそうにないもんな。よし。じゃあ言うぞ。……今日の朝、おれを助けてくれた魔物狩りを探してたって話、しただろ」

「言ってたね。でも、見つからなかったんでしょ?」

「ああ。ギルドに所属してない魔物狩りなのかもって思って、酒場に潜りこんで聞きこみしたりもしたんだけど、それでも駄目だった。女将さんにも聞いても、あんまりよく覚えてないの、とか言うしさ」

「そもそも、なんで女将さんがリックを引き取ることになったの?」

「俺を連れた魔物狩り……の知り合いが、カルスの教会が運営してる孤児院にやってきて、俺を引き取ってほしいって頼んだんだけど、教会もその頃孤児をたくさん引き取ってて余裕がなかったから、最終的に店の手伝いを探してた女将さんが引き取ることになったんだと」

「リックは一年前に引き取られたんだったよね? たしかその頃は町で疫病が流行ってたそうだから、孤児が増えててもおかしくはないかも」

「でも、それどこの孤児院? って尋ねても、どこだったかしら、なんて言うんだぜ」

「それはちょっと変だね。カルスにはいくつも教会があるけど、孤児院をやってるところはそう多くなさそうだし」

「うん。だからどう考えてもおかしいっていうか……はっきり言っちゃえば、女将さんは嘘はついてるんじゃないかって思ってさ。でも、そんな嘘を吐く必要なんてどこにもないはずなんだよな」

「まあ、そうだよね。やましいことなんて何にもないだろうし」

「じゃあなんで女将さんは嘘をついたんだろうって、半年ぐらいずっと考えてたんだけどよ。ある日突然、ふっと閃いたんだよな」

「女将さんが、自分を助けてくれた張本人なんじゃないかって?」

「なんで先回りすんだよ。言わせろよ」

「ごめん。でもそうすると、女将さんの正体は魔物狩りってこと?」

「俺も最初そう思ったんだけど、さすがにそんな風には見えないだろ? だからたぶん女将さんの正体は、魔術師」

「……そうだね、魔物狩りよりはそのほうがよっぽどしっくりくる。夜市について色々と知ってる風なのも、それなら説明がつくし」

「そうそう、この前の夜市は尻尾を掴む良い機会だと思ったんだけどな。お前がいなくなったときなんて、これで女将さんの本気が見られる! って内心小躍りしたよ。あ、ちゃんとお前のことも心配してたけどな」

「はいはい、心配してくれてありがとう。それで本気は見れたの?」

「いや。俺は先に店まで帰されちゃったし。でも、そのときの女将さん、なんか妙に落ち着いて見えたんだよな。急がなくても問題ないってわかってる感じっていうか」

「ひょっとして、エリィがまだ修行中の魔女だってわかってたのかな」

「それか、黒犬がお前を助けに行くって知ってたのかもな。使い魔がいれば、それぐらい調べられそうなもんだし」

「そうね、その可能性はあるかも。……でもそういえば、リックを攫った魔物って大群だって言ってなかった? いくら凄腕の魔術師でも、何十匹もの魔物をひとりで相手するのは難しいんじゃない?」

「普通ならそうだよな。だからたぶん女将さんは、俺を助けるために普通じゃない術を使ったんだよ」

「普通じゃない術?」

「わかんないけどさ。でも、俺がここに来たばっかりの頃の女将さんって、なんだか妙に具合悪そうだったんだよな」

「具合が悪そう? 風邪っぽかったとかではなくて?」

「もっとなんかこう、深刻な感じだったな。はっきりとだるそうで、顔色も赤かったり青かったりで。だけどしばらくしたら治ってたから、たぶんあれ、普通じゃない術を使った後遺症だったんだよ」

「話だけ聞くと風邪だったんじゃないのって感じだけど」

「かもな。でも、夜市の日のたびにあの日のことを思い出すんだよ。扉が開いた感じっていうか」

「扉?」

「はっきりしたことは何にも覚えてないんだけどさ。でもあの日、カルスの表と裏が繋がるみたいに何かの扉が開いて、俺は死なずに済んだ。だからきっと、夜市に行けば女将さんのことが何かわかるんじゃないかと思ったんだよな」

 女将さんの正体が魔術師。それは案外真実を突いている推論のようにも、全く根拠のないでたらめのようにも思えた。

 たしかに女将の浮世離れしたような雰囲気は、黒犬や白猫よりもよほど魔術の使い手に相応しく感じられる。謎の多い彼女に、そういう裏の顔があっても不思議ではないような気もする。

しかし、スー個人の心情としては。

「女将さんにはそういうのとは関係ない、普通の人でいてほしいかな」

 そういう気持ちがどこから生じてくるのかは、スー自身にもはっきりとわからなかったのであるが。

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