第6話
その日の残りは、惚けているうちに過ぎていった。
そもそも体がろくに動かないので寝てるしかないのだが、昨日までの張り詰めていた気持ちが今日はすっかり緩んでしまっていた。それは無気力ともまた違う、今は休むべきときだという了解のようなものだった。
寝返りを打つのも億劫なので、ひたすらに天井を見上げていると、時折女将や少年が様子を見に来てくれる。
「体、起こせそう? スープと果物を持ってきたんだけど」
「あ、ありがとうございます」
石のように重い腕を伸ばして綺麗に切り分けられた林檎を口に運ぶと、甘く瑞々しい果汁が乾いた喉を潤した。
「残りはここに置いておくから。食べられそうなら、食べちゃって」
「食欲なければ無理すんなよ。残りは俺が食べてやるからさ。あ、でもみじん切りで入ってる黄色っぽい野菜は残すなよ。ちょっと辛いけど、体にいいらしいから」
「苦手だったら食べなくて大丈夫よ。生姜って結構独特の風味だし」
少年の言葉通り、卵のスープにはなんだか不思議な辛さの野菜が入っており、果たしてそれのおかげなのか、食べ終わる頃には体が温まっていた。
体を横にして瞼を閉じると、宙にふわりと浮いているような感覚が全身を包む。階下からいくつかの話し声と、野菜を切ったり鍋をかけたりしている音が絶えず聞こえる。
……宿屋なのかな。それとも酒場?
ふと、一昨日の宿で見た光景が脳裏に浮かんだりもしたが、それでもなお、胸の内を満たす穏やかな感覚が損なわれることはない。根拠がどこにあるのかわからないが、この場所は大丈夫という不思議な確信があった。
そのまま寝入り、目を覚ました頃にはすっかり夜も更けていた。
「起きてる?」
返事をすると、粥を載せたお盆を携えた女将が姿を見せた。
「すみません、すっかりお世話になってしまって」
「いいのよ。それでね、まだ体が辛いようなら明日で構わないんだけど、少し話を聞かせてもらってもいいかしら。あなたのこととか、あの夜あなたは何をしていたのか、とか」
寝台の脇の椅子に腰かけた女将を、手前の小卓に載せられた灯が照らしだす。黒髪に黒服という点は黒犬と同じだが、その印象は真逆といっていいほど異なる。滑らかな質感のある上着は、高貴な女性が着る礼服のような気品がある。銀色の紐で緩やかに束ねられた髪は、冬の夜空を思わせるひんやりとした色を湛えている。
「なんか女将さんって、全然女将さんって感じじゃないですね」
「褒めてくれてるのかしら?」
「もちろんです」
女将が運んできてくれたハーブティーを口に含むと、少し緊張していた心のこわばりが解けていく気がした。
「落ち着いた?」
「はい。あの、わたしの話をする前にひとつだけ教えてほしいんですけど。女将さんはどこでわたしを見つけたんですか?」
「すぐ近くの路地よ。明け方、水を汲みに出かけたら、ぼろぼろの姿で倒れてるあなたを見つけたの」
「わたしはずっと南を目指して走ってるつもりだったんですけど、そしたらここはカルスの南のほうなんでしょうか」
「いえ、どちらかという北のほうね」
「北……それじゃあ、わたしは全然見当違いの方角へ進んでたってことですかね」
「そうねえ……ひょっとしたら、そうそうあることじゃないのだけれど、あなたは向こう側に迷いこんでしまったのかもしれないわね」
「向こう側?」
「夜の奥とか、カルスの裏側とか、呼び方は色々あるんだけど、一言でいえばカルスと重なりあって存在するもうひとつのカルスってとこかしら」
「もうひとつのカルス?」
あまりに理解を越えた話に、思考が停止してしまう。
「カルスが交易で発展してきた町だっていうのは知ってる? 古来よりカルスには、様々な土地から渡ってきた者たちがいた。近隣の村からの移民、海を越えた先の異国の商人、夜の闇に住まう人ならざる者たち」
「人ならざる者たち? まさか、人と魔物が取引を?」
「そう珍しい話でもないわ。魔物の力は人にとって脅威であると同時に、人には為しえないことを為すための手段となりうる。魔物にとっても人の持つ技術や、あるいは人そのものが大きな価値を持ちうる」
「人と魔物、お互いに利益があったんですね」
「魔物との取引はカルスの発展のために不可欠だった。だからカルスの支配者たちは、人ならざる者が町に出入りすることを容認した。そうするうちに、カルスの内側にもうひとつの町が生まれた。その町は、平時は私たちの世界とは別の次元にあり、月に二度の夜市のときにだけこちらと繋がる」
「夜市……それが人と魔物が取引をする市なんですか。昨日は丁度夜市の日だったから、あちら側への道が開いていたと?」
「ところが、次の夜市はまだ先なのよ。夜市の日以外にこちらとあちらが繋がったのだとしたら、それは相当強い力を持った魔物の仕業かもしれない」
「強い力を持った魔物……」
「心当たりがある?」
「魔物かどうかもわかりませんけど、どう見ても普通じゃない雰囲気のやつなら会いました」
女将はなるほどね、と呟く。
「向こう側は人の世の理が通用する場所じゃないから、南に向かっているつもりでも、いつのまにか北の端に辿りついているということも起こりうる。あなたがすぐそこで倒れていたのは、たぶんそういうことだと思う。あなたがどこへ向かおうとしていたのか、聞いてもいい?」
「はい。ひょっとしたら、あんまりに荒唐無稽で信じてもらえないかもしれませんけど」
スーが話す間、女将は時折相槌を打つ程度で、ほとんど口を挟むことはなかった。
全てを話し終えた後、大変だったわね、と女将は静かに呟いた。
「かもしれないですね。でも、そうはいっても、わたしはまだ生きてますし。それにまだやることも残ってますから、いつまでも寝こんではいられないです」
「それはあなたの村を滅ぼした相手を見つけだして、復讐すること?」
女将の問いかけに、スーは意外そうに目を見開く。
「どうなんでしょう。そういうことは考えてなかったですけど」
「でも、仇を見つけてすることといったら普通それでしょう? それともあなたは、あなたの大事な人たちを連れ去ってしまった相手を許せるの?」
「それは……わからないです。その誰かに出会ったとき、わたしの中で憎しみが燃え上がるのかもしれないし、あるいはもっと別の感情が湧いてくるのかもしれない。ひょっとしたらわたしは、それを確かめたいのかも」
「そのために、また己の身を危険に晒すことになったとしても?」
「はい。何がやってこようと怖くないとは言えないですけど、恐怖は立ち止まる理由にならないと思います」
女将はふっと表情を和らげる。
「決意は固いみたいね」
「あ……でもあの、女将さんたちに迷惑をかけることはしませんから! いや、もう十分かけちゃってますけど、体が動くようになったらすぐに出てきますし、世話になった分のお代もちゃんと……」
「出ていって、次はどこへ行くの?」
スーは一瞬言葉に詰まり、
「やっぱりまずは黒犬と合流する必要があると思います。どうにかして彼を見つけだして……」
「見つけだせるアテはあるの? 待ち合わせの場所は聞かされていなかったんでしょ? 人探しを依頼するにしても、黒髪で黒い服の男だけじゃ情報が少なすぎるでしょ」
「それはその通りなんですけど……黒犬はたぶん魔物狩りだと思うので、魔物狩りのギルドを通して居場所を探れないかなと」
「そうね、闇雲に探すよりはそのほうが良いと思う。でも、ギルドで何も手がかりが得られなかったら?」
「そのときは地道に探します」
「知り合いのいない、土地勘もない場所でどうやって?」
「それは……」
スーが黙りこんでしまうと、女将は苦笑を浮かべてみせる。
「別にいじめたいわけじゃないのよ。ただ、今いきなりここを出ていっても、あなたの目的を達成できる見込みはあまりないんじゃないかと思って。それならここに留まって情報収集したほうが現実的なんじゃないかしら? お金のことが気になるなら、店の仕事を手伝ってもらえればいいし」
「……いいんですか?」
「いいも何も、このまま放りだしたんじゃ寝覚めが悪いでしょ」
「……ありがとうございます!」
震える声で言うスーを、女将は優しい手つきで撫でる。
「今日はもう寝なさい。明日、また今後のことを……」
「もしここで働くなら、おれが先輩だからな! ちゃんと言うこと聞けよ!」
扉の向こうから顔を出した少年に、女将は咎めるような視線を向ける。
「もう皿洗いは終わったの? 終わったならさっさと寝なさい」
「なあ女将さん、そいつ人探しするんだろ? だったらうってつけの場所があると思うんだけど」
女将の眼差しがみるみる氷の冷たさを帯びていき、それでようやく少年は退散する。
「ごめんなさいね。真面目に働くいい子なんだけど」
「いえ、賑やかなのは好きですし、全然構わないです。それより、人探しにうってつけの場所っていうのは?」
女将は腕を組み、何やら難しそうな顔をする。
「そうね……また明日、話すわ」
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