第4話
初めて訪れた大都市の街角を、スーは落ち着きのない様子で見渡す。
とうに陽が落ちているというのに、通りは明るく、喧噪に満ちている。路上に並ぶ店には、見たこともない果物やら工芸品やらが並んでいる。馬を引きながら歩いてくだけでも、ちょっとした大仕事だ。
「なんか知ってる世界と違いすぎて、頭がくらくらしてくる」
「すぐに慣れる」
「ほんとに? それはそれで、なんかちょっと」
「無駄口を叩く余裕があるなら足を動かせ。でないと、いつまで経っても待ち合わせ場所に辿りつけない」
「たしかに、歩いても歩いても進んでる気がしないかも。いっそこの子に乗って駆け抜けていきたいくらい」
「駆け抜けてみるか?」
「やめとく。目的地に着くまでに百回ぐらい人にぶつかりそうだもの」
異郷の品々が並ぶ通りを歩くうちに、海の方角から強い風が吹いた。
その風に髪を巻き上げられたとき、胸の内に言い表しようのない感情が生まれた。
「ねえ」
鼻をひくつかせながら、スーは問う。
「今の風の匂い、なんか変じゃなかった?」
黒犬は気のなさそうな声で、
「港には色々と妙な品が運びこまれている。おそらくその匂いだろう」
「そういう変さじゃなくて、なんかどこかで嗅いだ覚えがあるっていうか」
「カルスへ出向いた村人が、珍しい果物を買いつけて領主へ献上したのでは?」
「だからそういうのじゃなくてね……」
慣れぬ人波を懸命に掻い潜るうちに、匂いのことは頭から離れていってしまう。
町の中心に近づくにつれて、ますます通りは人で埋め尽くされていく。それは単に行き交う人の数が増えているためだけではない。
「なんか道、狭くなってない?」
「よく気づいたな」
「いや、明らかに狭くなってるし。でも、なんで? 町の中心のほうが人も多いし、道を広げたほうが理に適ってる気がするんだけど」
「カルスも元々は小さな漁村にすぎなかった。今歩いているのは、その最初の時期にできた道だ」
「へえ……こんな立派な町でも、最初はサグみたいに小さな村だったのかしら。そう思うと、なんだか親近感が沸いてくるかも」
「この先は細い道が無数に枝分かれしている。ぼやぼやしてはぐれるなよ」
「万が一はぐれちゃったら、ちゃんと探してよね」
「探すが、見つけられるとは限らんぞ。カルスの路地裏の闇は深い。うっかり迷いこんでしまい、二度と戻ってこれない者も珍しくはない」
「そんなに治安が悪いの?」
「それだけなら、まだいいのだがな」
「なんだか思わせぶりな言い方」
「とにかく、はぐれずについてこい。ごちゃごちゃ喋らず、つまらないことも考えず、きびきび足を動かせ」
「はいはい」
黒犬の言葉通り、進むほどに道は細く、あちらこちらに枝分かれしていく。
「うーん、これは迷子になりそう……」
なるべく黒犬から離れないよう心がけるのだが、一度人波に飲みこまれると、いつのまにか距離が開いてしまったりする。そのまま見失ってしまわないよう、黒い外套を羽織った背中を懸命に目で追う。黒犬は黒犬で、さりげなく目配せを送ってくれていたりする。
見た目は怖いしぶっきらぼうだけど、たぶんいい人なんだよね……。
晩鐘が鳴り、徐々に忍び寄ってくる夜が街路を闇の色に染める。黒犬の姿は闇に溶け込んでいき、スーは一層目を凝らしてそのおぼろげな輪郭を追う。
あれでもだいぶ速度を緩めてくれてるんだろうけど、できればあともうちょっと……。
「きみの魂は、とても奇妙な在り方をしているね」
その声は耳元よりもなお近く、頭蓋の奥に直接届けられたような感じがした。
思わず足を止めて周囲を見渡すと、細く暗い路地に奇妙な人影を見つけた。
その小柄な人物は、全身を灰色のローブで覆っており、深いフードが顔の上半分を覆い隠していた。
「これまでいろんな人を見てきたけれど、そんな魂の持ち主は初めてだよ」
少年のような、少女のような、あるいは数百年生きた賢者のような。澄み切った泉のような、底の見えない沼のような。その声は幾つもの相反する印象を想起させる。
「ひょっとしたら彼女も、その魂に惹かれてきみの命を取らなかったのかもしれない」
息を呑み、ほんの一瞬の逡巡の後、スーは問いかけた。
「彼女というのは、影の女王のこと?」
「そういう呼び名で彼女を呼ぶ者もいるね」
「教えて! 影の女王というのは……」
駆け寄ると、小柄な影は砂細工のようにさらさらと崩れていく。
「きみの求める答えは、彼女自身の口から得るべきだろう」
「彼女自身から……? それは一体どういう意味?」
闇の向こうへ問いかけても、己の声が空しくこだまするばかりである。
……消えちゃった。
とぼとぼと路地を引き返していくと。
……あれ?
通りを埋め尽くさんばかりだった人波はどこにも見当たらず、それどころか、今ここにいるのは自分ひとりのようだった。
……何これ?
通りそのものにも変化があった。緩やかな坂を上った先に灯る、薄緑色の二対の炎。間違いなく、先ほどまでこんなものはなかった。
おそるおそる近づいてみると、炎は丸みを帯びた白っぽい台座の上で揺らめいているのだが、顔を近づけて凝視すると、それは明らかに人骨の一部、すなわち頭蓋骨を割って作られたものなのだった。
「……」
おとなしくここで待つか、動くか。
決断までそう時間はかからなかった。待っていても黒犬に会える気がしなかったし、一刻も早くこの薄気味悪い場所から立ち去りたかった。
次に考えるべきことは、坂を上るか下るか。まっすぐ進むか、脇道に入るか。
スーは坂をまっすぐ下っていくことを選んだ。理由は、それが一番安全な選択に思えたからだ。あの薄緑の炎は、これ以上進むな、という警告のように感じられた。脇道の先は、一度入ったら出てこられない迷宮のような気がした。
黒犬から聞いた話によると、カルスは中心部に近づくほど高度が上がっていくらしい。つまり坂を上っていけば中心に近づき、下っていけば周縁部に近づいていく。
……だから本当は、あの不気味な炎の先に進むべきなのかもしれないけど。
しかし、下っていけばいつかは必ず外壁につきあたり、外壁に沿って歩いていけば入口の大門に辿りつく。門の前で待っていれば、いずれは必ず黒犬にも会えるはず。普通に考えれば、きっとそう。ここは全然普通じゃないかもしれないけど、大丈夫、きっと帰れる。
しかし、歩けども歩けども誰ともすれ違わない。灯もない道を、月明りだけを頼りに黙々と進んでいく。
……馬の手綱を放さなければ良かったな。少なくとも、ひとりにならずに済んだもの。……あの子はちゃんと黒犬に見つけてもらえたかな?
「おい、そこで何してる?」
顔を上げると、いつのまにか坂を少し下った辺りにふたつの影が並んでいた。ひとりはこれまで見たこともないほど背が高く、もうひとりは異様に丸っこい輪郭をしている。
「ここがどこだがわかって……なんだ、小娘だぞ」
月明りに照らされた二人組の風体は、ひどく奇妙なものだった。先が尖ったつばの広い帽子を被り、その下の表情は一切窺えない。薄い紙か布のようなもので、顔全体が覆い隠されているのだ。その表面には、巨大な瞳がひとつ描きこまれている。
「迷いこんできたのか?」
「しかし夜市まではまだ日があるぞ。それ以外に、あっちとこっちが繋がる機会があったかね? ……なあ嬢ちゃん、お前は一体どこから入りこんだ?」
スーは答えず、すぐ側の脇道へと飛び込んだ。そのまま狭い路地を全力で駆け抜けていく。
……あれ、絶対関わっちゃいけないやつだ、絶対に。
路地を抜けた先でまた別の脇道に入り、そうするうちに円形の広場に出た。広場の中央には甲冑を着こんだ騎士の像があり、スーは息を切らしながら像の台座に寄りかかった。
……もう走れないかも。でもたぶん、追ってきてないよね? 足音も聞こえないし……。
「まったく、ちょこまかとよく逃げ回る鼠だな」
声はすぐ背後から聞こえた。振り返るとそこにはいつのまにか、淀んだ水だまりのようなものが広がっていた。やがて水だまりから吹き出るように、グズグズと粘っこい音を立てながら丸っこい影が姿を現した。
「まがりなりにも、ご令嬢だ、せめて兎か猫ぐらいにしてやれ」
もうひとつの水だまりから、細長い影が伸び上がってくる。その様はまるで、水だまりそれ自体が人の形を為したかのようだった。
「ご令嬢? この薄汚れた小娘がかね?」
「ああ。もしこの娘が俺の見立て通り、女王陛下の食べ残しならばね」
スーの背筋を、ひやりと冷たいものが通り抜けていく。
「こいつが例の食べ残し? ますます信じられんな。どこからどう見ても、何の変哲もない小娘だろうに」
「調べてみれば済むことだ。本物ならばご主人に献上し、俺の勘違いだったならば夜市で売り飛ばす」
「ああ、それで問題ないな。息があるほうが高く売れるんだったかね? それとも、予めばらしてしまったほうがいいのかな?」
……知るもんですか!
スーは歯を食いしばり、ほとんど破れかぶれの気持ちで、右手に嵌めた腕輪を影に向けて投げつけた。
すると、意外にも効果は覿面で、大小の影は狼狽えたように大きく後退る。
……そうか。こいつらきっと、そんなたいした魔物じゃないんだ。
全身の力を振り絞って広場を飛び出す。体のあちこちが悲鳴を上げ、嘔吐感までもがこみ上げてくるが、それでも構わず足を動かし続けた。
そして下り坂の途中で地面のへこみに蹴つまづき、そのまま坂の下まで転げ落ちていった。
……うう、昨日の夜もこんな感じだった気が。
だが、昨晩よりも状況はさらに悪い。もはや這いつくばる気力すらなく、黒犬ともはぐれてしまった。
……でも、まあ、自業自得かしら。黒犬の言う通り、余計なことを考えずに歩けば良かった。……お父様、ごめんなさい。わたし、みんなを助けられなかった。お母様、もうすぐやっと会えるね。
薄れかける意識の淵で、スーは静かな足音が近づいてくるのを聞いた。
……黒犬? それともあいつら? 神様、まだわたしを見捨てなさっていないのなら、どうか。
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