第2話

 その日は川沿いに広がる、鬱蒼とした森をひたすら歩き続けた。

 スーは黒犬に対して色々と尋ねたいことがあった。しかし前を行く黒犬は一向に歩調を緩めず、話しかける隙はほとんどなかった。

 日が暮れて野営の支度を終えた後、スーはようやく機会を得た。

「これから街道に出るのよね?」 

 問いかけると、正面に腰かけた黒犬は無言で頷く。焚火に照らされたその顔は険しいが、別に怒っているわけではなく、そもそもそういう顔なのだろうと思う。

「街道に出たら、その次は西? 東?」

「東だ」

「てことは、イリの町に行くの?」

「途中、立ち寄ることにはなるだろう。だが、目的地はカルスだ」

「カルス……」

 カルスは王国東部の海沿いに位置する港町である。国内外の品々が集まる交易の要であり、年に一度の大市は王都のそれを凌ぐほどの規模を誇るという。

「カルスに行けば、何か手がかりが得られるの?」

「そういう可能性もある」

「なんか煮え切らない言い方ね」

 スーは歯が折れるほど硬いパンを口に放り込む黒犬を、訝しむような目で見る。

「何かあてがあるから、カルスへ向かうんじゃないの?」

「報告のためだ」

「報告?」

「依頼されていた任務の報告をする必要がある。連絡係とはカルスで落ち合う手筈となっている」

 黒犬はパンを水で流し込みながら、淡々と続ける。

「ついてきたくなければ、それでも構わない。お前ひとりでこの辺りを調査したいなら、そうすればいい」

 スーは少々きまり悪げに目を伏せる。

「わたしだってそこまで子どもじゃないわよ。あなただって事情があるでしょうし、まずはそっちを優先してくれればいい」

「ほう、存外聞き分けがいいな」

「もっとわがままなお嬢様だと思った?」

「ああ。俺が面識のあるご令嬢というのはおしなべて、他人は自身に奉仕するために存在していると思い込んでいるようだからな」

「そんなにたくさんのご令嬢と面識があるの?」

 スーの問いかけを黙殺し、正直なところ、と黒犬は切り出す。

「もう少し本腰を入れて村を調べてみることも考えた。だが屋敷の様子から察するに、村を一日かけて調査したところでこれといった収穫は得られない可能性が高い。ならば、すでに掴んでいる材料を精査することを優先すべきだろう」

「すでに掴んでいる材料っていうのは……」

「無論、お前だ。だが、俺の目に映るお前はそこそこ聞き分けのいい小娘でしかないし、それ以上のことを調べる手立てもない。ゆえに、もう少しそういう方面に知見のある者の手を借りる必要がある」

「ひょっとして、それがその連絡係の人なの?」

 黒犬は頷く。

「あまり信の置けるやつではないがな」

「そう……」

 スーはしばしの間黙りこみ、焚火をじっと見ていたが、俄かにすっと立ち上がる。

「なら、こうしてる場合じゃないわ。一刻も早くカルスに行きましょう」

「行きたければひとりで行け。俺はもう寝る」

「……わかったわよ」

 スーは半ばいじけたような、半ば怨むような目で黒犬を見る。黒犬は表情を変えず、しかしわずかに労わるような声音で言う。

「焦る気持ちはわかる。だが拙速な行動は大抵の場合、良い結果を招かない。それに、夜は魔物の動きも活発になる」

「でもあなた、魔物狩りなんじゃないの?」

「そんなことは一言も言ってない。第一、俺が魔物狩りだったとして、身を守る術を持たない小娘を魔物どもから容易く護れると思うか?」

「……そうね。ごめんなさい、考えなしなことばかり言って」

「まずは確実にカルスに着くことだ。明日も日の出とともに出るぞ。さっさと寝ておけ」

「うん。おやすみなさい」


 目を覚ますと、そこは見慣れた村だった。領主館へと至る林の手前の道。

 はて。

 夜の森で、愛想のない男と野宿をしていたのではなかったか。それともあれは、木陰で居眠りしている間に見た夢だったのだろうか。もしそうだとしたら、一体どこからが夢だったのだろう。旅立ったところ? それとももっと前、昨晩起こったはずの出来事からすでに夢? であれば、どんなに……。

「良い感じに夢見心地のところ悪いのだが、少々付き合って頂けるかな?」

 若い男の声だった。舞台役者のように明朗な、どこか気取った感じのある声。

 しかし見渡してみても、その姿はどこにも見えない。

「ふむ、平凡だが悪くはない眺めだな。きみの父上はなかなか立派な領主だったらしい」

 スーは頭上に広がる枝葉を見上げた。どうやら、声は天の方角から聞こえてきている。

「おっと、すまないね。顔も合わせぬうちから、ついぺらぺらと。私の悪い癖だよ」

 枝葉の隙間を掻い潜り、騒々しく羽音を響かせながら、それは眼前に着地した。 

「やあ、お初にお目にかかるよ。おや? どうした、そんなに口をぽかんと開けて。私の顔に何かついているかね?」

 それは漆黒の羽毛に身を包んだ鳥、つまりは鴉だった。そして先ほどから聞こえていた若い男の声は、紛れもなく目の前の鴉から発せられていた。

「ああ、そうか。夢なのね」

 思わず呟くと、鴉はくいと首を傾ける。

「まあ、広い意味ではそうだろうな」

「狭い意味では違うの?」

「きみの意識は今、眠りについている。そういう意味では夢を見ているときと状況は同じだ。だが今きみが見ているのは寝ぼけた頭が作り出す幻ではなく、まごうことなき現実なのだよ」

「なんだか偉そうな態度の鴉と話してるのが現実?」

「いかにも。なんだか偉そうは余計だがね」

 スーは立ち上がり、丘の麓に広がる村を眺めた。藁葺屋根の家々。川にかかった小さな橋と、緩やかな流れに合わせて回る水車。それはどこからどう見ても、見飽きるほど見慣れた村の景色そのものだった。

「だけど、なんか違うような気もする。……なんでだろ」

「この村の様子がかね? それはそうだろうな」

「所詮夢だから細部はいいかげんってこと?」

「だから夢ではなくてだね。ここはいうなれば、きみの魂の奥底に広がる景色なのだよ」

「よくわからないけど、ようはわたしの記憶をもとに再現した景色ってこと?」

「そう言っても間違いではないな。ただし、きみの現在の記憶というよりは、きみがこれまで積み重ねてきた時間を礎としてこの場所はできあがっているのさ」

「つまり今の記憶だけじゃなくて、昔の記憶も混じってるってこと?」

「ご明察の通りだよ。ふむ、きみはなかなか物分かりが良いな」

「もう少しわかりやすく説明する努力をしてほしいけどね。でも、それならここから見える景色になんとなく違和感があるのも納得かも。それで、あなたはなんなの?」

「なんなの、とは?」

「とぼけないで。あなたはわたしの記憶の産物じゃないでしょ。喋る鴉なんて今まで一度も会ったことないもの」

 ああ、と鴉はわざとらしく声を上げる。

「私は客人だよ」

「客人?」

「眠りの底にあるきみの魂の小粋な訪問者とでもいうべきか……」

「乙女の寝込みを襲おうとしてる悪漢ってこと?」

「いやいや、私にそんな気持ちは欠片もないさ。むしろ私はきみの協力者なのだよ」

 スーは胡乱な目で鴉を見下ろす。

「おや、信じてもらえないのかね? 残念だな。せっかく遠路はるばる、影の女王の毒牙から逃れた令嬢の顔を拝みに来たというのに」

「影の女王?」

 スーの反応を見越していたように、鴉は目を細める。

「いかにも。それが、きみの村を喰らい尽くした暴食魔の名なのさ」

「それは一体……何なの?」

「気になるかね? などと聞くまでもないか。どうだろう、彼女に関して私の知る情報を差しだしたならば、少しは私を信用してもらえるかな?」

「あなたの話が本当だという保証はあるの? わたしを騙すためにでたらめをでっちあげてるかもしれないでしょ。……でも、とりあえず聞かせてもらってもいいかしら」

 鴉はからからと笑い声を立てる。

「信用はできないが情報は欲しいということだね。随分と虫のいい話だが、いいだろう、麗しの姫のご命令とあらば従わないわけにはいくまい。……と、言いたいところなのだがね。どうやら番犬に目をつけられてしまったようだ」

「番犬?」

 鴉は忌々しげに首を振る。

「きみを村から連れ出した黒衣の男さ」

「ああ、黒犬ね」

「あれはそういう名前なのかね? 名は体を表すとはまさにこのことだな。その黒犬めが今、こちらを鬼神のごとき形相で睨んでいるのだよ。というわけで、残念ながら今宵の逢瀬はここまでのようだ。また会おう、姫君」

 鴉はそう言い放つや否や、何処かへと飛び去ってしまった。

 スーは途方にくれつつ、眼下に広がる村の景色を今一度眺めてみた。

 ……やっぱり、わたしの知ってる村とはどこかが違う。

 昔と今とでは、様子が変わったところも当然あるだろう。しかし、たとえば……クレードの実家の横に、あんなに立派な木などあっただろうか? もしあんな木が村にあったなら、幼い頃の自分は喜々として登りそうなものだけど。

 それから丘の上に建てられた粗末な、そのくせなんだか妙に目を引く小屋。あんな小屋、絶対なかったはずだよね?


 目をこすり、暗闇に揺らめく炎の向こうに黒い姿を見つけた。

「目が覚めたか」

「うん。なんか、変な夢見たんだけど」

「夢ではなく、夢魔の術だ」

「夢魔?」

「眠っている者の意識に働きかける術を使う魔物だ。お前が寝ている間に、そいつがお前の意識に侵入してきた」

「侵入されたらどうなるの?」

「侵入した人間の意識を食い荒らす夢魔もいるし、意識を乗っ取って操る力を持った夢魔もいる。だが、あれはもっと低級な夢魔だろう」

「そうね、どっちかというと小物って感じだったかも。わたしが誰なのか知ってて、協力したいとか言ってたけど」

「甘言を弄して旅人を誘いだすのは夢魔の常套手段だ。無視していれば害はない」

「ふうん。ねえ、黒犬」

「なんだ」

「影の女王って聞いたことある? そいつが言ってたの。影の女王がわたしの村を襲った張本人なんだって」

 黒犬は、わずかに考えるような間を置く。

「そういう名で呼ばれる魔物は記憶にないな。おそらくはその夢魔の作り話だろう。さっさと忘れておけ」

「でもそいつ、わたしが領主の娘だってことも知ってたし、本当に何か事情を知ってたんじゃ……」

「この辺りを縄張りにしている魔物なら、お前の出自くらい調べられないことはない。夢魔は往々にして狡猾だ。やつらの言葉を真に受けるな」

「そりゃわたしだって、あいつが善意で近寄ってきたとは思わないけど」

 スーがいじけた顔で俯いていると、黒犬は腰に提げた袋から何か取りだし、差しだした。

 それは黒く滑らかな石で作られた腕輪だった。

「ひょっとして魔除け?」

「気休め程度のものだが、今晩のやつ程度ならそれで十分だろう」

「ええと、ありがとう」

「まだ夜明けまで時間はある。もう少し寝ておけ」

 それきり黒犬は黙ってしまったので、スーはおとなしく再び瞼を閉じた。瞼の裏には、夢の村の景色がまだ映りこんでいた。

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