第7話 受け継がれる灯

 夜が、ようやく息をついていた。黒い帳の中、村は静まり返り、焚き火の残り火だけが橙色に揺れている。風すらも音を潜め、小川のせせらぎが遠くから微かに響いた。


 あれほど荒れ狂った夜が嘘のようだった。アンデッドの襲撃が止み、村に訪れたのは、ようやくの安寧。


 俺とリヴは、ガレオンに案内され、古びた空き家へ通された。使われていなかったというその家は、壁にひびが走り、床板は軋み、空気は湿っていた。けれど、屋根があり、雨風を凌げるというだけで、まるで別世界のように感じた。


「……クロム様、ここでお休みください」


 リヴがそっと灯りをともして、部屋の隅にあるベッドを指した。古びた布団がかけられ、木枠は傷だらけだったが、俺にはそれが玉座のように見えた。


「ああ……。ありがとう」


 腰を下ろすと、全身から力が抜けた。硬い寝具なのに、不思議と柔らかく感じる。この数日、緊張の糸が切れることはなかったのだ。


「リヴは?」

「私は外で見張りをします」

「……馬鹿言うな。リヴも休んでくれ」


 リヴは、わずかに微笑んだ。その笑みは、どこか痛々しかった。

 強がりで塗り固めた穏やかさ。それが、かえって彼女の優しさを際立たせていた。


「私は眠らなくても平気です。けれど……、クロム様は違うでしょう?」


 そう言ってリヴは、俺の手を取った。その手は、夜の空気のように冷たい。だが、その冷たさが、不思議と心を落ち着かせた。


 彼女の手を見つめながら、胸の奥に押し込んでいた言葉が、堰を切るように溢れ出した。


「……なあ、リヴ」


 声が掠れる。喉の奥に残るのは、焦げた血と土の匂い、そして、どうしようもない恐怖だった。


「俺は……この力が怖いんだ」


 リヴが、静かに顔を上げる。その瞳は夜明けのように澄んでいて、逃げ場を与えてくれない。


「人を――、死者を蘇らせるなんて、正しいのかも分からなくなってきた。救っているつもりで、俺は何かを壊しているんじゃないかって」


 言葉が止まらない。先程のガレオンが立ち上がった瞬間の光景が、頭から離れなかった。

 あの瞬間は確かに生きているように感じた。だが、それが本当にかと問われれば、答えられなかった。


「でもな……」


 拳を握る。あのとき、迷わずリヴを守るために手を伸ばした自分を、否定はできなかった。


「リヴを守るためなら……、どんな力でも使いこなしてみせる。俺はもう逃げたくない」


 沈黙が落ちる。リヴはしばらく俺を見つめ、それからゆっくりと手を握り返した。


「……ありがとうございます、クロム様」

「何がだ?」

「あなたがそう言ってくれたことが、私の――、生きる意味です」


 リヴの声が、夜気に溶ける。その穏やかな響きが、胸の奥の恐怖を静かに包み込んでいった。


「……おやすみ、リヴ」

「はい。おやすみなさい、クロム様」


 まぶたを閉じた瞬間、意識が闇に沈んでいった。


 ◇   ◆   ◇   ◆   ◇


 ――夢の中で、誰かが泣いていた。光と闇の狭間で、無数の魂が手を伸ばしている。

 その中に、リヴの声が聞こえた。


『クロム様……起きてください』


 声に導かれ、目を開ける。朝日が差し込んでいた。リヴが窓際で、静かに外を見つめている。


「おはようございます、クロム様」

「ああ……」


 身体を起こす。全身が鉛のように重いが、不思議と心は穏やかだった。


「……行こう。ガレオンの家に」

「はい」


 ◇   ◆   ◇   ◆   ◇


 村の中はまだ傷跡だらけだった。焦げた木々、倒れた家、黒い煙の名残。

 それでも、人々は立ち上がっていた。互いに声をかけ、瓦礫を片付け、笑い合う姿があった。


 ――この村には、まだ希望がある。


 そう思った瞬間、胸が熱くなった。


 ガレオンの家に着くと、彼は玄関先に立っていた。左腕は再生している。顔には血色が戻り、昨日の死の気配など微塵もなかった。


「来たか、クロムさん」

「話したいことがある。村の皆にも聞いてほしい」


 ガレオンが頷き、村の広場へと向かう。そこには、すでに数十人の村人が集まっていた。昨夜、俺が蘇らせた者たちの姿もある。彼らの視線には不安が混じっていたが、同時に何かにすがりたい光もあった。


 俺は深呼吸をして、前に出た。


「……俺は、クロム。ヴァルネスト領主の息子だ」


 どよめきが広がる。村人たちの視線が一斉に俺に集まった。


 そのまま一気に言葉を繋ぐ。

 俺のスキルがネクロマンシーであること。リヴが、俺の力で蘇った存在であること。領地を抜け出し、今は、逃亡の身であること。

 この村の噂を聞き、頼るようにここへ来たこと。そして昨夜、ガレオンたち数人を蘇らせたこと。


 包み隠さず、すべてを話した。


 沈黙が降りる。風の音すら消えたようだった。恐怖、困惑、そして拒絶の気配が、場を覆った。


 ――また拒まれるのか。


 胸が締めつけられた。結局どこへ行っても、俺の力は忌むべきものだ。あの日のように、また拒まれるのか。


 だが、その沈黙を破ったのは、ガレオンの声だった。


「この人がいなければ、俺は今ここにいない」


 その言葉が、空気を変えた。彼は前に出て、俺の肩に手を置いた。


「命を取り戻した理由なんて分からない。 だが今、俺は確かに、生きている。守りたいものがある。再び妻と娘をこの手で抱きしめられる。それをくれたのは、クロムさん――。あなただ」


 イリーナが泣きながら頷いた。マリーナは父の背中に隠れながらも、小さく笑っていた。


「クロムさん……。ありがとうございます」


 その声に続くように、他の蘇った者たちも口を開いた。


「俺もだ。まだやりてぇ事がある。まだ終わらせたくねぇんだ」

「私も……お腹いっぱいで笑う人の顔を、もっとたくさん見たかったの」


 村人たちがざわめき始める。恐怖ではなく、驚きと理解の声が混じり始めた。


「……この人が、みんなを助けたのか?」

「死者を戻すなんて……。だが、あのガレオンさんが……」

「悪い人には見えねぇよ」


 その小さな声が、やがて波となって広場を満たした。ガレオンが俺に向き直り、低く言った。


「クロムさん。あなたに頼みがある。この村の長になってくれ」


 思わず息を呑んだ。耳が信じられなかった。


「……俺が? 冗談だろう。俺は領主の息子で、逃亡者で……。ネクロマンサーだぞ」

「それでも構わない」


 ガレオンの声は揺るがなかった。


「この村には、導く者が必要だ。生者も、死者も分け隔てなく受け入れる。あんたのような者が」


 イリーナが、ゆっくりと頭を下げた。村人たちも次々に続く。


 胸の奥が震えた。俺の力を拒まず、俺自身を認めてくれる人たちがいる。その事実が、涙が出るほど嬉しかった。


「……分かった」


 喉が焼けるように熱い。けれど、迷いはなかった。


「俺が、この村を守る。この命に代えても」


 リヴが隣に立つ。彼女の瞳に映る俺は、もう怯えていなかった。


 人々が顔を上げる。希望という言葉が、まだこの世界に残っていることを、その瞬間、確かに感じた。


 リヴが俺の隣で微笑む。その視線の先には、崩れた家々ではなく、再び立ち上がろうとする人々の姿があった。


 胸の奥が熱くなる。恐れでも、悲しみでもない。これは、確かな決意の炎だ。


「――この村を、俺が導く。死者も、生者も。すべてを背負って、この灯を絶やさない」


 その言葉に応えるように、ガレオンが剣を振り上げた。光が閃き、歓声が広場を駆け抜ける。


 リヴの瞳が、その輝きを映して揺れた。


「クロム様……」

「ああ。この灯と共に、俺たちは進み続ける」


 風が吹き抜ける。夜の残滓を払い、朝の光が世界を染め上げていく。


 ――死と生が交わるこの村で。俺は、もう逃げない。誰にも、何者にも屈しない。


 この手で未来を掴み取る。


 そう誓った瞬間、胸の中で何かが確かに燃え始めた。それは、絶望を穿ち、闇を照らす灯火。


 そしてその灯は、いつかこの世界すべてを照らす炎になる。


 ――受け継がれる灯。


 それが、俺たちの第一歩だった。

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