第9話 忘却のインク

深い静寂に包まれた記憶の図書館。その最奥で、アルキメデスはゆっくりと振り返り、背後の人影に語りかけた。


「カイ……やはり、お前だったか」


闇から現れた青年は、かつての面影を残しながらも、その瞳には氷のような冷たさと、狂信的な光を宿していた。彼はアルキメデスの元で最も優秀な弟子であり、誰よりも記憶の尊さを理解しているはずの男だった。


「師よ。私はただ、人々を苦しみから解放したいだけです」カイの声は穏やかだったが、その言葉には歪んだ信念が滲んでいた。「悲しい記憶、辛い過去……それらがなければ、人はもっと幸せになれる。私は、その手助けをしているに過ぎません」


「偽りの幸福を与えてか! 人が経験した歴史そのものを塗り替えるなど、魂への冒涜だ!」アルキメデスの声が厳しく響く。「お前が失った悲しみが、お前を歪ませてしまったというのか」


カイの表情が、わずかに揺らいだ。彼の指が、胸元に下げられた古いロケットに触れる。


「……私は、忘却こそが救いだと知りました。そして、ただ消すだけでは人は虚しさを覚える。ならば、幸福な記憶で上書きすればいい。誰も傷つかない、完璧な世界です」


そう言うと、カイは背を向けた。「私の影は、もう世界に放たれました。まずは、あなたが見出したあの二人……真実の記憶の重みを知る者から、私の理想郷へと誘いましょう」


彼の姿が闇に溶けるように消えていく。アルキメデスは杖を強く握りしめた。カイが図書館から盗み出した禁断の道具、『忘却のインク』。それを使えば、記録された記憶を自在に書き換えることができてしまう。事態は、もはや図書館の中だけの問題ではなくなっていた。



翌日、真理と翔太は、言いようのない違和感に包まれていた。学校の廊下で、クラスメイトたちがひそひそと話している。


「ねえ、翔太くんって、昔大きな事故に遭ったんだよね?」

「え? 嘘でしょ? だって、中学の時もずっと一緒だったじゃない。そんなの、聞いたことないけど……」

「あれ……そうだっけ……?」


友人たちの会話は噛み合わず、彼ら自身も自分の記憶に自信が持てないかのように首を傾げている。偽りの影は、真理たちの本だけでなく、周囲の人々の記憶にまで干渉を始めていたのだ。真実と偽りが混じり合い、世界が少しずつ歪んでいくような感覚。じわりじわりと広がる孤独感が、二人の心を蝕んでいく。


放課後、二人は『未来の記録帳』を開いた。ページの上には、無数の文字が黒いインクのように滲み、混ざり合い、判読不能な染みとなって広がっていた。それはまるで、混乱していく人々の心を映しているかのようだった。


「どうしよう……このままじゃ、みんなの記憶が……」

真理が不安に唇を噛む。その時、彼女の脳裏に、光となって自分の中に還っていったリフレの存在が浮かんだ。


(私は、痛みも悲しみも、すべてを受け入れた。だから、本当の自分を取り戻せたんだ……)


そうだ。逃げるのでも、消すのでもない。向き合い、受け入れること。それが、記憶に対する唯一の誠実な答えのはずだ。


「翔太くん」真理は顔を上げた。その瞳には、迷いを振り払った強い光が宿っていた。「私たちの、本当の記憶をこの本に伝えよう。強く、はっきりと」


翔太も頷いた。二人は並んで座り、白い本の上にそっと手を重ねる。そして、静かに目を閉じた。


二人の心に、これまでの道のりが甦る。


翔太が事故に遭った日の、絶望的な痛み。彼を忘れて過ごした十年の、空虚な日々。図書館での再会。アルキメデスとの出会い。失われた約束を思い出した時の、胸が張り裂けそうなほどの喜びと切なさ。リフレとの対峙と、和解。そして、現実世界へ戻ることを決意した、あの光の扉。


一つ一つの記憶は、決して楽しいものばかりではない。痛みも、悲しみも、後悔も、すべてがそこにあった。しかし、その全てがあったからこそ、今の自分たちがいる。偽りの幸せでは決して得られない、確かな絆が。


「僕たちの記憶は、これだ!」


翔太が強く念じた瞬間、二人の重ねた手から温かい光が溢れ出し、『未来の記録帳』に注ぎ込まれていった。本は眩い輝きを放ち、ページを汚していた黒い染みを浄化していく。ぐちゃぐちゃだった文字は消え去り、そこには一本の、力強い文章が刻まれた。


『二人は痛みを知っている。だからこそ、偽りの楽園を拒む』


本が光を収めた時、二人の周りの空気が澄み渡ったような気がした。



その夜。真理の夢に、焦った様子のユメが駆け込んできた。


「真理さん、翔太さん! よかった、ご無事で……」

「ユメちゃん。やっぱり、あの現象は……」

「はい。アルキメデス様の元弟子、カイ様の仕業です。彼は図書館の禁書『忘却のインク』を使い、世界中の記憶を書き換えようとしています」


ユメの言葉が、二人の推測を裏付けた。


「カイを止められるのは、真実の記憶の重みを知り、その力で『未来の記録帳』を浄化できた真理さんたちだけです。どうか、力を貸してください!」


ユメはそう言うと、光り輝く一枚の栞を真理の手に握らせた。それは、図書館の貸出カードのような形をしている。


「これは『帰還の栞』です。それがあれば、いつでも図書館への扉を開くことができます。師は……カイ様は、図書館の最も深い場所にある『原初の記録』を狙っています。もしあれを書き換えられたら、世界の歴史そのものが偽りに汚染されてしまう……」


真理と翔太は、顔を見合わせた。自分たちの戦いが、いつの間にか、世界の運命を左右するほどのものになっていた。恐怖がないと言えば嘘になる。だが、それ以上に強い使命感が、二人を奮い立たせた。


「わかったわ」真理は、栞を強く握りしめた。「私たちが行く」


翔太も力強く頷く。


「僕たちの記憶を守るためだけじゃない。僕たちみたいに、記憶に苦しむ人たちを、歪んだ救いから守るために」


二人の旅は、終わってはいなかった。

それは、自分たちの過去を取り戻す旅から、世界中の人々の「真実の記憶」を守るための、本当の戦いの始まりだった。

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