第6話 君と始める物語

「私たちは——この記憶と共に、生きていく」


真理と翔太の声が、静かな図書館に響き渡った。

それは決意の言葉。忘却という安寧に逃げるのではなく、たとえそれがどれほど痛みを伴うものであっても、二人で分かち合った過去のすべてを抱きしめて進むという誓い。


その瞬間、黒い影の扉は音もなく消え去り、目の前の光の扉がまばゆい輝きを放った。抗うことのできない優しい力が、二人を包み込み、その意識を光の奔流の中へと溶かしていく。固く、固く握りしめた互いの手のぬくもりだけが、唯一確かな現実だった。


どれほどの時間が経ったのだろう。


ふと、瞼の裏に感じていた光が和らぎ、潮騒の音が聞こえてきた。懐かしい海の香り。真理がおそるおそる目を開けると、そこには信じられないほど美しい光景が広がっていた。


茜色と金色が混じり合った夕日が、水平線を燃やしている。穏やかな波が白い砂浜に打ち寄せ、きらきらと光を反射していた。十年前の夏の日、翔太と指切りを交わした、あの約束の場所だった。


「ここは……」


隣で、同じように目を覚ました翔太が息を呑む。見渡す限り広がる海と空。だが、町や人の姿は見当たらない。まるで世界に二人だけしか存在しないかのような、静かで、完璧な空間だった。


「私たちは、還ってきたの……?」


真理の問いに、背後から優しい声が答えた。


「いいえ。あなたたちは、新しい世界を『選んだ』のよ」


振り返ると、そこにリフレが立っていた。

以前のような冷たい瞳ではなく、夕日を受けて穏やかに輝く瞳。その表情には、長すぎる役目を終えた者のような、安堵と少しの寂しさが浮かんでいた。彼女の周りを渦巻いていた黒い靄は、もうどこにもない。


「リフレ……」


「あなたたちがすべての記憶を受け入れた。絶望も、痛みも、恐怖も、すべてが『真理』という一つの物語になった。だから、影である私の役目はもう終わり」


リフレは静かに真理へと歩み寄る。その姿は少しずつ透き通り、光の粒子となって輪郭が揺らぎ始めていた。


「消えちゃうの……?」


真理の声が震える。自分を守るために、孤独な闇の中で十年もの時間を耐え抜いてくれた半身。その存在が失われることが、今はたまらなく悲しかった。


「消えるんじゃない。還るのよ、本来いるべき場所に」リフレは微笑んだ。「私は、あなたが見たくなかった涙。あなたが叫べなかった悲鳴。でも、もう大丈夫。あなたは一人じゃないから」


真理は一歩前に踏み出し、光となって消えゆくリフレを、力の限り抱きしめた。温かいのか冷たいのかも分からない、ただ切ない感覚だけが胸に広がる。失われた十年の孤独、痛み、そして自分を守ろうとしてくれた彼女の強い想い。そのすべてが、涙となって真理の頬を伝った。


「ありがとう……。今まで、本当にありがとう。あなたも、私だよ」


「……ええ」


リフレの声は、風に溶けるようにかき消えた。彼女の光の粒子は、吸い込まれるように真理の体の中へと還っていく。それは、欠けていたパズルのピースがぴたりと嵌まるような、完全な感覚だった。真理は、十年分の重みと、それ以上の愛おしさを胸に抱き、ようやく本当の自分を取り戻したのだ。



記憶の図書館では、アルキメデスと真理の母親が、静かに閉じられた一冊の本を見つめていた。表紙には金色の文字で『最後の約束』と記されている。


「彼らは、記憶そのものを自分たちの世界として生きることを選びました」


アルキメデスが、深い皺の刻まれた顔で言った。


「現実でも幻でもない、二人の魂だけが存在できる、約束の場所。過去のすべてを抱きしめ、そこから新しい未来を紡いでいく。それこそが、この図書館が記憶を失った者たちに示す、最良の結末の一つなのです」


母親は、本の表紙をそっと指でなぞった。その目には涙が浮かんでいたが、表情は晴れやかだった。


「あの子は、強い子になりました。翔太くんという、かけがえのない光と共に……。あの子たちの物語は、決して悲劇ではなかったのですね」


「ええ」老司書は頷いた。「どんな辛い記憶も、誰かと分かち合うことで、それはただの過去ではなく、未来へ続く道標となる。彼らはそれを証明してくれました」


閉じられた本の最後の頁。そこには、夕暮れの砂浜を手を取り合ってどこまでも歩いていく、二人の小さな後ろ姿が、新たな挿絵として静かに浮かび上がっていた。



夕日が完全に沈み、空には一番星が瞬き始めた。


真理は、隣に立つ翔太の顔を見上げた。彼の瞳は、迷いのない輝きを取り戻している。


「ここから、僕たちの新しい時間を始めよう」翔太が、真理の手を優しく握りながら言った。「辛いことも、楽しいことも、全部二人で。もう絶対に、君を一人にはしない」


「うん……」


真理は力強く頷いた。胸の中には、リフレから受け取った十年分の想いも息づいている。それは決して軽いものではないけれど、翔太と一緒なら、きっと背負っていける。


「ねえ、翔太くん」真理は悪戯っぽく微笑んだ。「観覧車で交わした『最後の約束』って、何だったか覚えてる?」


翔太は一瞬きょとんとし、それから全てを思い出したように、優しく笑った。


「ああ。もちろんだよ」


彼は真理の手を強く握りしめ、星空を映す瞳で、はっきりと告げた。


「どんな未来が待っていても、何があっても、もう決して君の手を離さない。ただ、それだけだ」


それは、十年前に交わされた、不器用で、けれど何よりも純粋な誓いの言葉。


二人はもう何も言わず、ただ互いを見つめ、微笑み合った。寄せては返す波の音が、新しい世界の始まりを祝福するように、優しく響いていた。


彼らの物語は、ここで終わるのではない。失われた記憶を取り戻す旅は終わり、ここから、二人で紡いでいく、本当の物語が始まるのだ。

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