天使の得体も知らない癖に Ⅱ

小述トオリ

プロローグ

第1話 猫が起きた日

 猫がデスクの上に乗った。

 キーボードの横、マウスのスペースにどっかりと腰を降ろし、しっぽを揺らしている。

 猫が抱き上げられ、デスクから降ろされた。


 らんが打ち合わせの準備を始める。

 パソコンの電源をつけた。

 猫が今度はデスク前の椅子に丸まっている。

 猫が抱き上げられ、椅子から降ろされた。


「僕、今から打ち合わせなんだけどぉ……」

 猫が、そう言ったらんの膝に飛び込む。

「他の部屋で待てる?」

 にゃあ、と猫が不満を表明した。

「むずかしぃか、そうだよねぇ」


 ウェブカメラに、猫のしっぽが映りこんだ。

 らんが猫を抱き上げ、膝の上に乗せたまま話し始める。

馬酔木ませぼさんの家の猫ちゃん、可愛いですね! こんにちは』

 らん馬酔木ませぼの方の苗字で呼ばれてるってことは、魔調局の関係者か。

 芸能関係者だったら馬酔木あせびって呼ぶもんな。


 打ち合わせの内容も化け猫の保護管理みたいだし、動物好きな人が多いんだろう。

 魔調局といえば魔獣バージョンの鳥獣害対策課だもんな。


 話しかけられた猫は、らんの腕に軽く噛み付いた。

 らんは、その猫を振りほどこうとするそぶりさえ見せない。


『猫ちゃんのお名前は?』

「......えにしです」

「みゃあん」

 猫――俺は、らんに撫でられながら、ウェブカメラに向かって鳴いた。

 さらにその様子を、室内にある見守り用のペットカメラが録画していた。


 ペットカメラの日付は五日前。

 俺が人型に戻らなくなってから、三日目の録画だった。

 今の時刻は午前六時。

 仕事の後で午前二時まで配信をしていたらんは、もちろん布団で寝てるんだろう。


「……一週間、こんなんだったんか」

 ペットカメラの録画映像を、そっと消した。

 人型に戻って早々やることが、これじゃあまるで証拠隠滅みたいだ。


 らんが来てくれてるからか、室内はおおよそ片付いていた。

 俺宛に届いた大量の段ボールと郵便物が、未開封のまま廊下に積んであるくらい。

 らんが郵便物の処理は苦手だからか、俺のプライバシーを気にしてくれたのか、まあたぶん両方。

 適当な段ボールを開封してみれば、中には通販で買ったパスタソースが入っていた。

 段ボールには、猫の爪痕がくっきりと残っている。

 別に猫を飼ってるわけじゃない、俺の爪痕だ。

 

 人の言語で話してもないから、当時の俺はほとんどただの猫。

 こうやって、段ボールを引っかいてたような。


 早回しで見た録画の中の俺は、一日のうち十八時間くらい寝ていた。

 猫って寝る子のことなのかもしれない。

 らんに出してもらった飯を食べて、らんに風呂で洗ってもらって、らんと一緒の部屋で寝る。

 引き剝がされそうになると布団に爪を立て、悲しそうな声で鳴いた。

 らんがトイレに行くだけで、トイレの扉で爪を研ぎ、扉の前で座り込んでいる始末。


 ――俺が人型だったら、強制的に入院になりそうな状態だったのに。

 俺が猫型だから、問題にもならなかった。

 ただ、らんの声色が、どんどん沈んでいっただけ。


 俺が強い光を怖がるから、らんがインターフォンをスマホ連動のものだけにして、光のアラームを切った。

 一週間くらい、らんは寝る時に補聴器を外すんじゃなくて、古い補聴器を着けたまま寝てた。


 考え事をしているうちに、部屋の掃除は粗方終わっていた。

 掃除というか、届いていた郵便物を片付けて、通販で買ってたものを開封して、ダンボールを畳んでまとめただけ。


「グッズの返信、どうすっかなあ」

 仕事に戻らないと。

 金を稼がないといけない。

 

 運がいいことに、この一週間以内に締切はなかった。

 基本的に、早めに提出するようにしてるし。

 事務所から俺への直接連絡も、何もなかった。

 俺が元マネージャーに盗撮された一件から、事務所から俺宛の連絡は原則ゆるまにあの誰かにCCをつける運用のままだ。


 一週間休んでも辛うじてなんとかなったのは、フリーランスだから。

 でも、そろそろ配信しないと騒がれそうだ。

 今日か明日に配信はするとして、曲のデータ提出の締切とか、グッズへの返信とか、出版社からの連絡とか。

 ……気が重い。


「今回のグッズは、あ、動物モチーフグッズね、はいはい」

 新しいグッズの案は、雨音あまねカモのイメージカラーの猫のぬいぐるみだった。

 これなら大丈夫そうだ。


 前、盗撮写真の俺の服装と、アクリルスタンドの雨音あまねカモの服装が似てるとかでちょっと炎上したんだよな。

 アクリルスタンドは急遽、イラストレーターさんに描き換えてもらうことになった。

 イラストレーターさんが盗撮写真を全部把握してる訳もないし、男の私服のバリエーションなんてたかが知れてるだろうに。

 それから、雨音あまねカモのアクリルスタンドの服装は全部、ファンタジーになってる。

 ハロウィングッズで仮装にしたりとか、どこの芸人だよみたいな派手色のスーツとか。


「なんかでかい案件受けないとなあ」

 投げ銭は相変わらず受け付けてないし、グッズもこれだけ気を使われてる以上、頻度は決して高くない。

 俺ひとりが生きていくぶんには、それで特に金に困ることもない。

 ――あくまで、俺が賠償をしないならの話。


 ストーカー被害の報道の後、しばらく体調を崩してたから、雨音あまねカモはライブを一件潰した。

 まだチケットを売ってはいなかったとはいえ、ある程度の準備は進んでたから、その準備にかかっていた実費がいくらなのかがこの前やっと判明したところだ。


 あらゆる取引先は、一切、俺に対する賠償請求を行わなかった。

 それどころか、外部向けの決算資料で偶然数字を見つけるまで、損害額がいくらだったのかさえ知らなかった。


 俺に請求したらむしろ取引先が叩かれるってことだろう。

 でも、俺が出した損害なのにな。

 事務所の負担や、保険なんかでなんとかなったぶんを除いて、新車一台余裕で買えるくらいの金額。


 その金額で人は死ぬのに。


 * * *


えにし、おはよぅ」

 一曲分のデモを作り終えて、最後に回していた仕事に手をつけようとしたところで、らんが起きて来た。

 弾んだ声で、たぶんだけど満面の笑みで俺の方を見ている。

 一週間ぶりだもんな、人型で会うの。


「……おはよ」

「おかえりぃ。なにしてんの?」

 たぶん、らんは世間話をしようとしていた。

 日常を取り繕おうとしてんだと思う。


「別名義のサイン考えてる。出版社から声掛けられたんだよね」

「あー、音屋やってる時の名前変えたんだっけぇ」

「そうそう、多生之縁たしょうのえにしな」

 多くの生を持つえにし

 猫又みたいなモチーフにでもしてやろうか、まで考えたところで、サインの案出しは終わっていた。

 ……あまりにも出版社に返信するのが億劫で、サインのデザインに逃げただけ。


「楽譜?」

「ううん、写真集」

「へぁ。 え? 写真集?」

「うん。最近コンポーザー……音楽系の仕事少なかったし、熱心な打診来たから、仮契約した。話題性あるから売れますよってあっちがすごい乗り気なんだよね」

 別に、らんにこれを伝えたところで情報漏洩にはならない。

 雨音あまねカモがマネージャーに盗撮されてから、新しいマネージャーともどうにも上手くやれなくて、俺のマネージャーはらんになってる。

 らんはスケジュール管理が苦手だから、実質的に俺は事務所から直で連絡を受けてるけど。


「へぇ、営業の人はそんな乗り気なんだ?」

「うん。打ち合わせしたいってメールが平日は毎日来てたし、仮契約した時なんか四時間くらい通話してたよ。疲れた」

「……へぇ」

 メインの写真は、普通の部屋みたいなスタジオでの撮影。

 サービスショットとして、ベッドと風呂場での撮影を数ショットずつ。

 出版社の人曰く、よくある構成らしい。


 実際に、その営業さんから言われた作品を自分でいくつか買って見てみたら、どれもそうだった。

 なんとなく気持ち悪さを感じたのも、撮られてみたら本当に変わるんだろうか。


「配慮しますって書いてあるけど、どんなのかって聞いたぁ?」

「服を脱ぐ撮影は同性しか現場に入らないとは言われた」

「あったりめぇだろ。待って、脱ぐ?」

「サービスショットは脱ぐもんなんでしょ? 風呂場での撮影もあるし、男だからそういうもんって言われたけど」

 俺の返事に、らんは自分の髪を乱暴に掻いた。


「何が買いたいの、いくら足りないの」

「特に急いで買いたいものがあるわけじゃないよ。たしかに契約金はおいしいけど。新車買えるくらい貰える」

「僕が、その金出すから今すぐ契約断ってって言ったらどうする?」

「何言ってんだ、そんな残高無いだろ」

「借金してでも出す」

「辞めろ、危ないから」

「それ言いたいのはこっちだよ!」

「別に、……ちょっとゴシップ系の出版社だけど、危なくはないよ」

 風呂場やベッドでの撮影があるって言われたのは、正直ちょっと怖いけど。

 でも、そういうのがあるから客は買うらしい。

 表紙は過激なやつにしますねって。

 ……別に、ベッドの上であぐらかいたって、いつもと何か変わる訳でもないし。


えにし?」

「怖いって思う俺がおかしいだけだから、大丈夫、すぐ終わるみたいだし、ギャラいいし、迷惑かけないように別名義考えて、それで、だって散々撮られてたんだから隠して貰えるなら今更」

 何故か目眩がした。


「それに、上限も決まってるらしいから、ポーズとか。ちょっと、ソファで足開くやつがあるくらい。ほら、俺、結構見た目女っぽいから、そういうポーズも入れたいって」

 話をしていないと、歯が音を鳴らしそうだった。

 らんの前で、座ったまま足を開こうとして、らんの手で遮られる。


「......僕は、前にゆるまにあのブランディング考えて断ったことあるよ、そういうの」

「あ、そうなん?」

 らんの声色は、嘘だと言っていた。

「うん。ミライが別で子ども向けの仕事多かった時期あったじゃん? だから辞めた。ミライ、言いにくいかもしれないけど困るんじゃないかな」

「……じゃあ、今回は断っとく」

 つまり、俺に嘘をついてまで、らんが必死に止めようとしてるってことになる。


 でも、筋は通ってるんだよな。

 ミライがきらきらのお兄さんって呼ばれるような活動をしてる以上、別名義とはいえ同じユニットのタレントが子どもに見せられないような写真集なんか出すのはちょっとな。


「りょーかい。事務所には僕からも連絡しとくね」

「ん? 分かった」

 たぶん、事務所から出版社に何かしらの連絡は入るんだろう。


 ――助かった。

 そんな考えが、一瞬過ぎった。


「出版社の提案は、これで全部? えにしこの出版社と今まで契約ないのに、いきなりこんなん提案されたの?」

「いや、最初の提案内容は年齢制限つきの写真集。流石に断ったんだけど、連絡がしつこくて」

「はぁ? 脳の血管ブチ切れそう」


 表紙は、ソファの上で足を開いてる構図。

 裏表紙は、トランクケースに詰められてる構図。

 一番最初に提案されたデータを見せた時、らんから奥歯を噛みしめたような音がした。


 俺が仮契約した方の内容と、この辺は変わらないんだけどな。

 営業の人は、ギリギリを攻めるって言ってた。

 通話が終わった後に仮契約の内容を眺めたけど、どこが年齢制限から下がってるのか、よく分からなかった。


 結構過激なんだよな、最初の提案からずっと、相変わらず。

 演出のために触れられるとかは、仮契約の中にも結構あったはずだし。

 電話でも、痛みがないようにするみたいなことを熱弁された。

 相手演者さんはベテランだから、痛くないって他のタレントさんからも好評らしい。

 血糊とかも色々使って、本物っぽくするんだって。


「まあまあ、あくまで、俺が契約しなきゃいい話だから」

「提案すること自体どうにかしてるだろ。……えにしが自分から、吹っ切るためにやろうとしたんなら別だよ。でも、そうは見えない」

 図星だった。

 そもそも、出版社から連絡を受けるまで、そんな発想は塵ほどもなかった。


「うん。最初は、被害を昇華したことを公開しましょう、みたいな感じの文面で、年齢制限のある写真集を提案されたから……なんだこいつって思ってた。何回断っても、毎日連絡届くし」

 昇華どころか、俺、先週一週間は丸々寝込んでたけどな。


「合ってるよぉ。なんだこいつ、で、合ってる。マネージャーとして事務所に報告だけするから、仮契約の方も貰っていい?」

「ん。今送った」

「ありがとぉ。……えにし、ファイル間違え……あ、いや、これが最新版?」

 らんは、俺以外のタレントについて記載されているページで指を止めていた。

 『相手演者性病検査済』の文字を、何度も指でなぞっている。


「うん。俺の電子署名入ってるやつが最新版」

「......そっか」

 らんは仮契約のPDFをスマホで何枚か見てから、片手で顔を覆った。

「……あー、ちょっと、お手洗い行ってくるねぇ、腹痛いかも」

「ん、いってらっしゃい」

 まるで、ホラー映画を見た後みたいな声だった。


 扉が閉まる直前、らんがスマホを取り出していた。

 寝起き早々これって、忙しいんだな。

 引き留めて、悪いことしたかもしれない。


 十分で戻ってきたらんは、髪が少しだけ濡れていた。

「……おかえり。あれ、もう顔洗ってきたん? いつも朝飯食ってからなのに」

「気分転換。ちょっと冷やしたくて」

 らんの声は、さっきより一段落ち着いていた。

「二月に冷やすなよ。風邪ひくぞ」

「暖房つけてるんだから大丈夫だよぉ。そうだ、えにしはもう朝飯食べた?」

「まだ食べてない」


 俺とらんの目の前で、俺のスマホが立て続けに震えた。

「あれ、断った営業から、また連絡来てるっぽい。二通。直接会って話したいって。えー、めんどくさ」

えにし、ちょっと、えにしのスマホ預かっててもいーい?」

「あ、やり取りの報告、PDFだけじゃ足りんかった? いいよ、もちろん」

「ちょっと借りるねぇ」

 らんがスマホを二台持ったまま、今度はトイレじゃなくて玄関の方まで遠ざかっていった。

 この部屋はオートロックなのに、玄関のチェーンを触った音がする。

 あれ、いつもチェーンは開けっ放しなんだけどな。


「なに、朝飯買いに行く?」

「行かない行かない行かない! 今日は僕、料理したい気分!」

「朝から珍し。普段出前じゃん」

 俺がしばらく猫だったから、料理する時間もなかったのか。


 らんは俺のスマホをポケットに入れたまま、冷蔵庫を漁り始めた。

 まあ別に、食べ終わってから返して貰えばいいか。

「何作んの?」

「なんか煮込み料理……ロールキャベツにしようかな」

 冷蔵庫の開け閉めが、いつもより雑な気がする。

 まだ眠いのかな。


「朝からロールキャベツ? しかもホワイトソースから作るの?」

「だってホワイトソース買ってないんだもん」

「普段そんなもん使わねえもん。あれ、ミンチなんかあったっけ」

「冷凍の鶏肉があるから、これをミンチにする。えにしも料理しようよぉ」

「えー、じゃあ、付け合わせでポテトサラダでも作るわ」

「いいねぇ!」

 ロールキャベツくらい時間がかかりそうで、レシピを見なくても適当に作れるやつ。

 ベーコンと黒胡椒を入れた、居酒屋によくある味。


 レシピを丸暗記してるのは、らんが昔、居酒屋のポテトサラダをまた食べたいって駄々を捏ねたから。

 当時、現代社会生活二年目くらいのらんに、チェーン店の期間限定メニューについて理解させるのは難しかった。

 人気のメニューで、再現レシピがあったのだけが救いだった。

 

 俺がじゃがいもを剥いている最中、らんは窓を見に行って、カーテンを閉めた。

「なに、窓空いてた? 寒い?」

「ちゃんと閉まってたよ。大丈夫だった。部屋があったかくなるまで、カーテン閉めとこ」

「はいはい」

 そんな寒いかな、この部屋。


らんはこの後どんなスケジュールなん?」

「え? 予定? なーんにもないよ」

「あれっ、今日オフだっけ」

 平日なのに、有給でも取ってんのか。

 ロールキャベツを作ろうとするまでは、起きた時間的に、九時半時出勤の日だと思ってた。

 休みなのに平日のいつもの時間に体が勝手に起きるって、あるもんな。


「ん、今玄関の方でなんか落ちたような音した。見てくる」

えにしは行かないで、火を見てて!」

 らんは左手にスマホを持ったまま、右手で菜箸を引っ掴んでキッチンを出て行った。

 ……その菜箸、たぶん杖の代わりだよな。

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