なぜか魔王と風呂イベント
結局、レイヴァンに押し切られる形で入浴することになった。
幸い湯船は広く、魔王とは両極端の位置に腰を下ろせた。
湯気に遮られて、互いの姿はよく見えない――それだけが、せめてもの救いだった。
それにしても、豪華な風呂場だ。
白い石造りの浴槽は、大人10人がゆうに入れるほどの広さで、中央には湯が絶えず湧き出る噴出口がある。
白濁色の湯からは香草の匂いが立ち上り、全身がとろけそうに心地よい。
本来なら、目を閉じてその気持ちよさに身を委ねたいところだ。
だが、シリウスは背筋を伸ばしたまま、湯船の奥から視線を逸らせない。
湯気の向こうに、レイヴァンの影がぼんやりと揺れる。
その存在を意識するたび、落ち着くどころか鼓動が早まるばかりだった。
「どうだ。気持ちいいだろ?」
「……湯船はな」
「はは、何か不満がありそうだな。俺の存在か」
余裕のある声が奥から響いた。
シリウスはその姿を睨みながら、口を開く。
「王国では……魔物は魔王に操られていると教えられてきた。長年、魔物の被害によって、多くの人が傷ついて、死んだ。……私が所属していた部隊も、魔物の群れに襲われて、行方不明になっている」
「それで、魔王を恨んでいるというわけか」
向こう側から、ぱしゃりと湯の跳ねる音がした。レイヴァンが体勢を変えたのだろう。しばしの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「各地での魔物による被害……責任の一端は、確かに俺にもあるな」
――人間を傷つけているのは魔物であって、直接自分が手を下したわけではない、とそういう意味だろうか。
まるで他人事のようではないか。王国でどれだけの人間が被害に遭ったと思っているのか。傷ついた人たちを目の当たりにしてきたシリウスにとって、到底許せるものではなかった。
湯の中でぎゅっと拳を握りしめる。必死に感情を抑えこんでいると、レイヴァンが問いかけてきた。
「お前はなぜ、たった1人でここに来た? 俺の首を狙っていたんだろう」
「……言えない」
頑なな応対を気にした様子はなく、レイヴァンは続けた。
「まだ警戒が解けないか。不用心な馬鹿よりも、よっぽどいいけどな。俺を敵視するのも、憎むことも、好きにすればいい。だが、飯だけはちゃんと食え。食事に毒を入れるなんて、卑怯なことはしない。そこに関してだけは、安心してくれていい」
こういうことを言われると、どうにも調子が狂う。本当に何なのだろう、この男は。
シリウスは苦い思いで眉をひそめる。
「美味い飯をたらふく食ってから、国に帰るなり、また俺の首を狙うなり、勝手にするといい」
様々な感情が胸の内で、渦を巻く。やがて、シリウスは小さく息を吐くと、拳を開いた。
魔王を恨んでいるのは確かだが、その魔王に助けられたのも事実なのだ。その点に関しては筋を通さなくてはならない。
「……命は狙わない。まだ気を許すわけにはいかないが、世話になった。恩を仇で返すような不誠実な行いは、騎士としてふさわしくない」
「おお、それなら安心だ」
「それに……私では万全の状態で戦っても、君には勝てない」
「そうだろうな」
湯気が立ち上る光景を、静かに眺めた。
しばらくの沈黙が続いてから、シリウスは呟いた。
「……私は、騎士団の中でも落ちこぼれだ」
湯に浸かるうちに、体がほぐれてきたからだろうか。シリウスの口からは、ふと本音が零れ落ちた。
魔王城に来る前にあった出来事が脳裏をよぎる。
あの日、シリウスが所属する部隊は、魔物討伐に向かっていた。
シリウスは他の隊員とは離れ、1人、別行動をとっていた。
魔物討伐において、シリウスの役目は
その日も単身で、巨大な魔物相手に挑んだ。作戦のポイントまで魔物を誘いこもうとした時、異変に気付いた。
討伐対象とは、別の魔物の気配――それも複数。
気が付いた時には、周りを魔物に囲まれていた。
『おい、聞いていたより数が……!』
『まずいんじゃねえの、これ……』
上官が叫ぶ声が聞こえた。
『――総員退避!』
仲間の足音が一斉に自分から遠ざかっていく。シリウスは愕然としながら立ち尽くしていた。
誰もシリウスのことなど話題に出さない。魔物の群れの中に1人で残された。
唸り声が迫る。
シリウスは歯を食いしばり、剣を握り直した。
――生きて帰る。
その一念だけで、体を動かした。
何度も倒れそうになりながら、牙と爪をかわし、叩き斬った。ひたすら逃げて、斬って、走った。
その後、何日もさ迷った末、ボロボロになりながらも、王都の門をくぐった。
生きて帰ったという事実だけが、シリウスの誇りをかろうじて支えていた。
だが、シリウスは衝撃の事実を知ることになる。
他の隊員が、誰1人として帰っていないというのだ。
軍律違反があったとして、シリウスは団長の前に引きずり出されていた。
罰として鞭で打たれ、魔王を討つように命じられたのだ。
そして、シリウスがそのように団長から罰せられるのは、初めてのことではなかった。
「魔法がいっさい使えない……そのせいで、周りには疎まれ、罰ばかり受けていた」
「それで、あの背中……」
レイヴァンが何かを呟いたが、よく聞こえなかった。
「何だ?」
「……いや」
軽く流してから、レイヴァンは言った。
「聞いてる限り、居心地よさそうに思えねえけどな。そんな場所、さっさとやめたらどうだ。そうだ、俺の軍に入るといい」
「なっ……! 魔王軍になど、入るわけがないだろう!」
「そうか。……残念だ」
それは、どういうつもりで言ってるのか。
からかわれたのかもしれないと思い、シリウスはむっとして、口元を湯の中に沈めた。
◇
風呂上り、シリウスは新品のシャツの袖口を止めていた。
「服まで借りて、すまない」
もともと着ていた服はすっかり汚れてしまっていた。そこで、魔王軍の兵士の服を仕方なく借りたことにしたのだが、どうにも気持ちが落ち着かない。
すると、レイヴァンがこちらを見て、固まっていることに気付いた。
「……私の顔に何かついてるか?」
レイヴァンはハッとして、慌てたように言う。
「あ、いや……そういう格好をしていると、本当に俺の軍に入ったみたいだなあ」
「借りるだけだ、入隊の意志はない!」
◆
(こいつ、こんな見た目をしていたのか)
シリウスの姿が予想外で、レイヴァンは内心で驚いていた。
汚れを落とし、真新しい服に身を包んだシリウスはすっかり化けていた。
陽光を透かしたような
その青い瞳は湖面のように澄んでいる。感情の表現が薄いが、それがまた作り物めいた美しさにもなっていた。
さっきまでは今にも死にそうな顔をしていたのに、湯上がりなこともあり、頬に赤みが差している。
彼に渡した兵士服は、黒い軍服で簡素なものだ。しかし、シリウスが着ると、騎士としての気品と凛とした雰囲気を纏った。
(……化けすぎだろ)
◇
その後、シリウスはレイヴァンの後ろをついて、城の通路を歩いていた。
魔王を討つことができなかった以上、王国には帰れない。騎士としては不名誉この上ないが、しばらくはここに滞在し、彼に従うしかなかった。
しばらく進むと、通路の向こうから誰かが歩み寄ってきた。
背筋がぴんと伸びていて、堂々とした歩き方――その立ち振る舞いから、一般兵ではないことがすぐにわかる。
(人間……? いや、魔王と同じく悪魔だろうか)
姿は人間の青年に見える。男はレイヴァンへと近づくと片膝をついて、恭しく頭を下げた。
「魔王様、ただ今、オルベール村の視察より戻りました」
「クロヴィス。ご苦労だったな」
クロヴィスと呼ばれた男が顔を上げる。淡い銀髪に、赤い瞳。レイヴァンを見上げ、ほほ笑む。
次に、その視線はシリウスへと向けられ、
「……おや?」
その瞬間、口元の笑みはそのまま、瞳だけが酷薄な色を纏った。
クロヴィスは立ち上がって、礼儀正しく一礼する。
「魔王様、大変失礼いたしました。城内の清掃が行き届いておりませんで……異物が紛れこんでしまったようです」
彼の姿が視界から消えた。
そう思った直後、背後に気配。
シリウスは反応する間もなく、後ろから伸びた腕に捉えられていた。
首筋にひやりとしたものが触れる。視線を落として、硬直した。短剣を首に押し当てられている。
「すぐに排除いたしましょう」
クロヴィスはにこやかに言った。
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