第6話 case 3-③
アビゲイルが家に着くと、いつもボスが真っ先に出迎えてくれる。
アビゲイルはボスと目線を合わすようにしゃがみ込み鞄と買って来た花束を置くと、
いつものようにボスの両頬を撫で回し笑顔に
なっていた。
「ヴォス、ヴォス、ヴォス」
ボスはお疲れ様と言っているかのように、
アビゲイルの顔に頭を何度も何度も
擦り付けた。
「あなた、おかえりなさい」
エヴァがゆっくり玄関先まで出て来ると、
アビゲイルは立ち上がり花束を渡した。
「長い間支えてくれてありがとう。これからは
2人の時間を楽しもう」
エヴァは涙ぐみながら花束を受け取った。
「あなたこそ、長い間お疲れ様でした。
明日からはゆっくり出来ますね」
大きな花束を抱きしめながらエヴァが言うと、アビゲイルは一歩近付いた。
腕を組みゆっくりとリビングへ向かう2人の
ペースに合わせ、ボスは尻尾を振りながら
着いていった。
リビングのテーブルには綺麗なテーブルクロスが敷かれ副菜とビールグラスがセットされて
いる。
「そうか、今日はステーキだったな」
「そうですよ、上等なお肉ですよぉ」
そう言うとエヴァはキッチンに向かいステーキの準備を始めた。
いつもの様に2人と1匹での夕飯が始まり、
ボスにも上等なお肉が振る舞われた。
「ボス、美味しいかい?」
ボスは食事中は答えない。
「そうだそうだ、実はジョージからプレゼントを貰ってね、ほら」
アビゲイルは今にも爆発しそうなニッコニコの笑顔でデビスカップのチケットを取り出した。
その笑顔は伝染し、何かも分からないまま
エヴァもニッコニコの笑顔になっていた。
「まあ凄いっ!カールも出場するの?
この大会」
「そうなんだよっ!カールがいるんだよっ!」
アビゲイルの笑顔が爆発した。
「ヴォス!ヴォス、ヴォス」
笑顔の爆発に、ボスが反応した。
「それは楽しみですね、ジョージさんには
今度お礼をしないとね」
「あぁ、家に招待する約束をしたんだ、
エヴァも久しぶりだろ」
「それは良いですね、何を作ろうかしら」
「あと、これは私から」
アビゲイルは赤いリボンを飾りつけてある一冊の本をエヴァに渡した。
「まあ!これはもしかして、フットレルの
新作っ⁈」
「ヴォス!ヴォスヴォス!」
エヴァの笑顔の爆発にもボスは反応した。
フットレルはアメリカだけでなく、ヨーロッパでも有名な推理小説家である。
そしてエヴァの日課は、特殊相対性理論を読みながら寝ているアビゲイルの横でフットレルの小説を読む事であった。
「まあ嬉しいっ、フットレルの小説は何回読んでも楽しいのよぉ」
「喜んでくれて良かったよ。私が読んでいる
特殊相対性理論は未だに理解できんがなぁ
ハハハ」
2人の会話はいつもよりも一段と弾み、
アビゲイルの退職祝いの夜は過ぎていった。
「今週末には皆んな帰ってくるからなぁ、
賑やかになるぞ」
「そうね、久しぶりですね、アイビーに
アイラ、サディも大きくなってますかねぇ。
サーモンのクリーム煮作らなきゃ」
「それは皆んな喜ぶぞぉ、楽しみだなぁ」
週末はアビゲイルの退職祝いのため、カミラとジアナの家族達がいっせいに集まる事になっていた。
ミラー家が全員揃うのは、数年ぶりの事で
あった。
そして、週末。
ロンドンのカミラ家では…
アリアはいつになく上機嫌になっていた。
それは、なかなか予約の取れないフランス料理店の予約が決まったからだ。
「カミラ、フランソワの予約がやっっと
取れたわっ。1年も待ち続けたの、絶っ対に
行くわよ」
「凄いなぁ〜、それは絶対行こう!1年で取れただけでも早い方だよっ」
「じゃあ、今日のボストン行きはキャンセルね。何を着て行こうかしらぁ〜」
アリアは鼻歌まじりにクローゼットに向かって行った。
「?…ん?…ちょっと待って」
カミラは一瞬考えた後、アリアを追いかけた。
「フランソワの予約っていつ?」
「今晩よ、楽しみぃ〜」
オ〜シャンゼリゼェ〜🎵オ〜シャンゼリェ〜
ノリノリのアリアは上機嫌の最高潮の様で
あったが、カミラの一言で一変する事になる。
「残念だけど今日は無理だよ、ボストンに行く約束じゃないか。父さんの退職祝いだよ」
急に眉間にシワを寄せたアリアは意味が分からないと言わんばかりに両手を左右に大きく広げて怒り狂う。
「ボストンへは来週でも、再来週でも、いつでも行けるわっ、でもフランソワは違う。今日を逃すとまた1年以上待つ事になるわっ。さっきあなたも絶対行こうって言ったじゃない⁈嘘をついたのっ⁈私に嘘をついたのっ⁈」
めちゃくちゃに早口で、カミラに喋る隙を与えない。
「シャーロットに自慢してやるのよっ、いつもいつも高級な服!バック!指輪!見せびらかすように自慢して来るじゃないっ!フランソワはわざわざアメリカからでも食べに来るぐらい有名な店よっ、シャーロットも行った事がないはずっ、だ・か・ら、今日のボストンはキャンセルよっ!アイラとアイビーが熱でも出したとか言って!早く電話してっ」
怒りと早口からか、アリアの顎は少しずつ上がり、カミラには鋭利な刃物になっていく様に
見えた。
「今日のボストン行きは何ヶ月も前から決まってた事じゃないか、しかも子供が熱を出したって?嘘は良くないだろ」
「そうよっ!嘘は良くないっ!あなたはフランソワに絶対行くと言った!あなたは嘘をつくの⁈」
カミラは呆れ顔で大きなため息を吐くと、冷静に話し出した。
「こんな事で言い争っている時間は無い。飛行機の時間は決まっているんだ。さあ準備して。出発するぞ」
「嫌よっ、行かないっ、フランソワに
行くのっ!」
カミラはアリアを無視し、子供部屋から顔を出して2人の様子をうかがっていた子供達に、早く準備するよう促した。
すると姉のアイラが近付いて来た。
目線を合わす事なく、そして少し申し訳なさそうに呟いた。
「私もフランス料理の方が良いな…
おばあちゃんのサーモンのクリーム煮…
苦手だから…」
「何だよアイラ、お前まで…アイビーはどうなんだ?おじいちゃんとおばあちゃんに会いたいだろ?」
弟のアイビーも部屋から出て来ると、もじもじしながら呟いた。
「僕はボスが苦手…すぐ吠えるし、怖いよ…」
カミラは全身の力が抜け、目の焦点が合わなくなる程ショックだった…
「もういいよ、分かったよ…1人で行くから」
「駄目よ、私が行きたくないって言ったみたいじゃない。行きたくない訳じゃないの、日程を変更しましょうって言ってるの」
「…、…、…」
カミラは言葉を失った…
これまでのアビゲイルやエヴァへのプレゼントは、アリアが義父母を気遣い送った物では当然ない。カミラが買って来た物を、あたかも自分が買って来たかの様にアリアが送っていた物
だった。
ニューヨークのジアナ家では…
シャーロットが金髪の長い髪を振り動かし
怒っていた。
「はっ⁈車っ⁈飛行機じゃないのっ⁈…
6時間以上かかるわよ⁈」
「え?車だよ。言ってなかったっけ?」
「無理無理無理無理ぃぃ!飛行機で行けば2時間もかからないわ、飛行機のチケット取って!」
「シャーロット、今日になってそれは無い
だろ、せっかくお義父さんに借りたんだ」
「途中で故障したらどうするの?サディもいるのよっ、歩けないわ」
(サディではなく、君が歩きたくないんだろ)とは絶対に言えないジアナであった。
「フォード社産の高級車だよ、故障なんかしないよ。それに今から飛行機のチケットなんか取れないよ」
(どうせ助手席に乗って、寝ているだけだろ)
とは絶対に言えないジアナであった。
納得のいかないシャーロットは電話をかけ
始めた。
「お父様っ!今からボストン行きの飛行機を
3席押さえてっ!」
義父の秘書であるジアナは腰に手を当てうつむき頭を横に振っていた。
すぐに電話を終えたシャーロットが戻って
きた。
「お義父さん、何て?」
「久々の休みだから、そんな事でいちいち電話してくるなって…」
「そりゃそうだ、1ヶ月振りの休みだからね。
もう車で行くしかないよ」
「無理っ無理っ、絶対嫌よ車なんて。車なら
私行かないからっ!」
シャーロットは癇癪持ちで、一度言い出すと絶対に曲げない性格であった。
ジアナは仕方なく航空会社に問い合わせたが、席は開いている訳もなく、キャンセル待ちにかけるしかなかった…
「とりあえず支度して、キャンセルが出るかもしれないから」
駄々をこねるシャーロットとどっちでも良いよという表情のサディを車に乗せ、3人は空港へ向かった。
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