第2話 case 2-①
その男は苛立っていた…いや、苛立ちを通り越し諦めていた。
授業を受ける気も無い、理解しようともしない学生どもに…そして、この無意味な時間に…
背後から聞こえる学生どもの低レベルな私語を背中で消すように、男はただ黒板と向き合っていた。
カツ、カツ、カー、カーカツ、カッカツ、カー
男は黒板に当たるチョークの音だけを聞いていた。
一通り図を書き終えると、振り返る事なく、黒板に話しかける様な小さな声で授業を進めた。
「この図のように、x軸上を等速で運動する物体が… … … …右方向をx軸正の向きとして…… … …移動距離がxであるから… … …」
カッカッカッ、カッカツ、カツ、カー、カツ
「次の図は、x軸上を… … 速度vと時刻tとの関係を示した… … …物体Aは6m/sで一定の… …物体Bは初めの1秒間は… … … 加速している… … … … …物体Cは … … … …時刻0から3秒までの間に、各物体が… … … … … …それぞれの速度が異なることから… 」
「… … …この数式を覚えておくと、更に複雑な… … … … …物体の運動の基礎であるから、理解しておくように」
男がこの授業中に初めて振り返った。
教卓の上に置かれていた教科書を手に取り、閉じた。
ジリリリリリリリリリリ
授業の終わりを告げるベルが教室に響いた時には、男はすでに自分の椅子に深く腰をかけ、窓から外を眺めていた。
ふぁ〜、あ〜、ふぅ〜
学生達は次々と大きなあくびしていた。
「長かったなこの時間、全然聞こえねぇよ」
「だな、スミスのやつ授業する気ねぇだろ」
「おい聞こえるぞ、それよりランチ行こうぜ、腹減ったわぁ」
(スミス)
全部聞こえている。目上の人間に気遣いも出来ない愚か者は、ホットドッグでも食べて帰れ。
「ねぇねぇ、今日の授業分かった?」
「分かるわけないでしょ、ずっとあんたと喋ってたじゃん」
「確かに」
「√ ?ルート?無理無理、意味分かんない」
キャハハハハ
(スミス)
は?√すら理解していないのか?今までの数式をどう理解しているんだ…そうか、解いてすらいないのか、まあこいつらには無理か。
「数学って難しいなぁ」
「いや、今の時間って物理でしょ、物体の運動がどうとかって…」
「物理だったの?物理なんか興味ねぇわぁ」
「お前、数学も物理も点数悪いよな」
「うるせぇなぁ、お前もだろ」
(スミス)
物体の運動など、物理学では基礎の基礎。この時点で見失っているようなら、もう私の授業を受ける資格すらない。もう来るな。来ないでくれ。
ここは、イギリスの片田舎にある高校。スミスはこの学校の物理教師である。
授業を終えた後も「早くこの部屋から出て行け」と言わんばかりに、学生達に背を向けたままである。
「おい、結局最後の問題の答えって何だったの?」
「俺に聞くなよ、スミスに聞けば?」
「無理だろ、隣にいても声聞こえないよ」
「聞こえても分からないしな」
「って言うかさ、最後の問題どころかお前ずっと寝てたよな」
ハハハ、ハハハ
(スミス)
寝てた?親の金で学校に通わせてもらっている分際で?…寝てた?…まあ私語をするやつよりはまだマシか。いずれにしろ、クズだが。
「こないだスミスが言ってた三角形の内角の和がどうとかって覚えてる?」
「うーん…あぁ、正とか負とか?」
「そうそう、平面って何?この世界は2次元?ってこと?」
(スミス)
Ω>1=球体、Ω=1=平面 …
非ユークリッド幾何学、こんな話したか?
こんなやつらに…?
この世が2次元?バカが。
3次元+時間=4次元が常識だろ。縦・横・奥行きすら認識出来ないのか。
この世界がどう見えている。
この高校はスミスが通っていた進学校とは違い、地元に唯一ある公立学校で、下の上…中の下辺りの学校である。
スミスは、オックスフォード大学を卒業後、大学の研究室で物理の研究に没頭していたが、その生真面目で神経質な性格からか、体調を崩してしまった。
「やっと静かになったな。低俗な猿の戯言は聞くに耐えん」
学生どもが全員教室からいなくなったのを確認すると、スミスは学生用の机と椅子を寸分の狂いなく元の位置へ整列させながら、独り言をブツブツと喋っていた。
「まったく、机を歪め、椅子は出しっ放し…気にならんのか」
体調を崩してからは地元に戻り、1年間の静養。その後この学校に赴任し、5年目である。
「こんなやつらの為に、何年無駄にしてしまうんだ…やはり大学に…おそらく私にはあまり時間がない…」
スミスは常日頃から大学へ戻り研究を再開したいと考えていたが、自身の体調以外にも戻れない理由があった。
机を並べ終えたスミスは真っ直ぐに、そして直角に整列された机を見ると、眉間のシワが取れ表情が落ち着いた。
自分の机に戻るとハンカチで手を拭き、家から持って来たサンドウィッチとホットコーヒーを入れた水筒を取り出した。
いつもの様に左手でサンドウィッチ、右手に水筒を持ち、椅子に深く腰をかけ足を組み、束の間のランチを楽しんだ。
この日の授業を全て終えたスミスは自転車で家路につく。
家までは自転車で40分程度。医者からは脳内のアミロイドβを増やさない為にも適度な運動をするように言われていた。
スミスには帰宅の際にもルーティンがあり、それは家の近くの公園のベンチに座り水筒に残しておいたホットコーヒーを飲む事である。
大きな木の下に長いベンチが3基あり、決まって必ず東側のベンチの東端に座るのである。
雨が降ろうが、雪が降ろうが、である。
家に着くとスミスはまず母親を探す。
「母さぁーん、母さぁーん」
母親がキッチンの方からゆっくりと顔を出した。
「アーサー?おかえり」
アーサーとはスミスの名前である。
母親は疲れていた表情を何とか明るく変えたが、声は少し震えていた。
「今日はどう?父さんは?」
「うん、いつも通りよ。さっき少しカッとなったけど、今は落ち着いて裏庭にいるわ」
「怪我はない?少し休んで」
「大丈夫よ。ありがとう…」
スミスは裏庭に行き、父親へ声をかけた。
「父さん、ただいま」
父親は花壇に水をあげていた手を止め、振り返えると、スミスの顔を見ながら不思議そうな表情を浮かべ、軽く会釈をすると、再び水をあげ出した。
「今日もダメか…」
スミスはため息をつくと、母親がいるキッチンへ向かった。
父親はアルツハイマー病であった。スミスが体調を崩す少し前からその兆候があったが、スミスが家で静養し始めた頃から症状が一気に悪化した。
非常に温厚な性格の父親であったが、4年程前から時折り母親へ暴力を振るう様になっていた。
これが、スミスが大学に戻れないもう一つの理由である。
スミスが毎日欠かさないルーティンは母親へ暴力を振るわない様にとの思いから始めた験担ぎであった。
「お父さん、どうだった?」
「花に水をあげてたよ、声をかけたら、会釈されたよ」
最近では息子であるスミスの事すら認識出来ていないらしい。
父親のアルツハイマー病について調べるうちにスミスはまた一つ大きな不安を抱えることになっていた。
医者から家族性アルツハイマー病であると告げられたのである。
アルツハイマー病患者の1%はこの家族性アルツハイマー病とのことで、100%遺伝するらしい。また、その子供は親と同年齢の時期に発症し、その後死亡する。
脳内のアミロイドβが急増し発症するらしいが、現代の医学でも原因と治療法は確立されていない。
ある夜。
食卓を囲み、家族3人での夕食が始まった。
「今日は私の好きなコテージパイだ、ありがとうアメリア」
「いえいえ、何か飲みますか?」
「あぁ、ワインをもらおうか。今日はアメリアも飲みなさい。君も飲むかね?」
父親はスミスの事を息子の友人だと認識しているようであった。
「はい、私も頂きます」
スミスは父親がパニックにならないよう、友人として振る舞った。
「私はアメリアの作るコテージパイが好きでね。この辺りではシェパーズパイがポピュラーだが、私はどうもラム肉が苦手でね」
「では、乾杯」
「うん、やっぱりこのコテージパイにはワインが良く合う」
父親は一口一口をしっかりと味わう様にコテージパイを食べてはワインを飲んでいた。
母親も父親の満足そうな顔を見て、安心し笑みを浮かべていた。
「ところで君はどこの大学に通っているんだ?」
「オックスフォードです」
突然の質問に、スミスは友人の設定を忘れていた…
「そうかっ、君もオックスフォードかぁ。アーサーはね、小さい頃から成績が良くてねぇ、特に物理と数学はいつも100点だったんだよ。なぁアメリア」
「そうですねぇ、賢かったですねぇ」
母親はスミスの方を見て笑いながら答えた。父親に話を合わせながらも楽しんでいるように見えたので、スミスも顔がほころんだ。
「アーサーは元気かね?勉強で忙しいのか最近はめっきり帰って来なくてね」
「アーサー君は元気にしてますよ、いつもご家族に会いたがっています」
「そうかそうか、元気なら良いんだ。アーサーは真面目過ぎる所があるからなぁ。集中するとご飯もろくに食べないんだよ。そんな時は、いつもアメリアがサンドウィッチを作ってやってたなぁ」
「右手のペンは置かずに、左手でサンドウィッチを食べてましたねぇ」
また母親は笑いながらスミスの方を見てきた。
「今でもランチは毎日サンドウィッチですよ」
「そうかそうか、ハハハハハハ」
父親の息子自慢の話を聞いていると、スミスは照れ臭くもあったが、とても嬉しかった。
特に今夜の父親はいつになく、饒舌であった。
「アメリア、この子にワインを2本渡してやってくれ。1本はアーサーに、もう1本は君にだ。たまにはこれでも飲んで一息つきなさいと伝えてくれるか」
「分かりました、ありがとうございます」
「うんうん、今日は楽しかったよ、それじゃあまたいつでも来なさい。アメリアもコテージパイありがとう、美味しかったよ」
父親はそう言うと、寝室へと向かって行った。
スミスも母親も、父親の上機嫌ぶりに久しぶりに夕飯を楽しむ事が出来たのである。
翌日、父親は亡くなった…
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