第35話 巣ごもり部屋

 レオハルトの母は早くに亡くなり、父に育てられてきた。

 父は厳格な騎士だった。

 その血を受け継ぐレオハルトもまた、父と同じ才能をもち、代々受け継ぐヴォルフグランツ家の美貌を備えていた。

 レオハルトは幼い頃から、自分には心が無いような気がしていた。

 義務で生きる。

 楽しいことも知らず、ただ強く、正しくある。 立派でいる。


――何のために?


 父が常に言っていた。

 自分より力を持たない人のために、私たちは持っているこの力を使う。


 しかし……何だろう。この静けさは。

 心を動かされることもなく、義務と規律という冷気に晒されて、心が外側から凍っていく。


 このままではきっと氷に閉ざされてしまう。

 しかし、その痛みも苦しみも無かった。

 ただ、続く生の道だけがそこにあった。

 父と寸分たがわない、同じ道だ。

 最後まで見通せるほどの整然と整えられた道。



 七歳で王立騎士育成学舎に入学したレオハルトは、その頃から将来は近衛騎士だと噂されていた。

 模範騎士候補生として卒業後は、十三歳で近衛兵見習いになった。

 そして、十九歳で正式に近衛騎士に昇格。

 その頃は高級文官の地方随行任務が多かった。

 

 ある時、王国行政監査官が地方貴族の家督相続のための行政監査に行くことになった。

 その護衛としてレオハルトが随行することになった。

 

 地方貴族はルキアード家といった。

 他国との境にある辺境の地だ。そこまでは王の威信が届きにくい。

 何かあった時のため、十数名の護衛隊を連れて赴くことになった。

 

 経験を積んで三年、二十二になったレオハルトは護衛隊の隊長を務めることになった。

 護衛隊といっても、近衛騎士はレオハルト一人だけで、あとは地方駐屯軍や一般騎士などの混成隊だった。

 しかし、だからこそ距離があり、彼らを束ねるのにはかなり苦労した。

 普段接しているエリートの近衛騎士とは違い、動作は粗野で品がない。任務への意識も低い。

 そのうち〝エリート様〟と皮肉られるようになったが、レオハルトは黙殺した。


 騎士育成学舎でもそうだった。

 レオハルトは孤高であることに慣れていた。

 冷たい威圧感だけで、彼らを従わせることができた。

 荒くれものの騎士たちでさえ、レオハルトを恐れていたのだ。



 時期は真冬であり、一番寒さがひどい時期だった。

 雪の中、その地に着くと、新しい領主は意外と温かく迎えてくれた。

 家族は母親と妹、そしてリオンという弟がいた。

 

 領主、ライネルは護衛隊のために今は使用していない建物を宿泊棟として整備しておいてくれた。

 護衛隊はそこで寝泊まりして、高級文官は貴族の母屋に宿泊することになった。


 護衛隊の主な目的は王の威信を届けること。そのための威圧だった。

 家督相続時に行うのは、書類の処理と領地の確認、忠誠再認宣誓の立会などだった。

 最低でも一週間はかかり、その間はずっとこの貴族の家に留まることになる。

 威圧のための護衛隊だから、することと言えば見張りだけだ。

 部下を門の外、邸内や庭などに配置して、レオハルトは玄関の扉の脇にずっと立っていた。

 他の騎士たちはルーチンで一日のうちに必ず邸内を入れていたが、レオハルトは彫像のようにそこから動かなかった。

 冬の間は、貴族は邸の中から出てこないことが多い。

 誰もいない、ただ白い空間が、レオハルトの前に広がっていた。



 護衛任務についてから三日後、玄関が開いた。

 この家の次男のリオンという少年だった。彼は真っ白でふわふわのコートを着ていて、まるでうさぎのようだった。

 リオンはまっすぐに近づいて、声をかけてきた。


「寒くないですか?」


 少し迷ったが、この邸の人に礼を尽くさねばならない立場だ。レオハルトは静かに答えた。


「寒くはない」

「退屈じゃないですか?」

「任務中は退屈だとは感じない」

「窓の外からみてると、ずっと何日も動かないから、人間なのか気になって」


 その素直な疑問に、レオハルトはうっかり笑みをこぼしてしまった。

 しかし頭にヘルムを装着しているため、その表情は見られることはない。

 レオハルトは慌てて無表情に戻った。


「その目を覆っている部分、上げられるんですね」


 少年はヘルムのバイザーに目を付けた。確かに蝶番が見えるから、上下に動くことは想像できる。


「動かしてみて欲しいか?」

「はい、見たいです!」


 レオハルトは自分の目を見せることにためらいがあった。

 薄く青い瞳はよく氷のようだと言われたからだ。また、顔の造形も威圧感があるらしい。

 怯えたら可哀そうだが……二度と話しかけてこなくなるのは、任務の都合上、いいのかもしれない。


 レオハルトはバイザーに手をやり……一拍の間の後、ゆっくりとバイザーを上げた。

 少年は現れたレオハルトの瞳をじっと見つめてきた。

 そこに恐れは微塵も感じなかった。ただ、純粋な好奇心に真っ直ぐに貫かれていた。


「……そんなに見るな」

 レオハルトは耐えきれなくなり、あわててバイザーを下げた。


「すみません。不躾でしたよね。あなたの目の色……とても気になって。

冷たい色なのに、温かい感じがして……」


 リオンはぺこりと頭を下げた。

「僕はリオンといいます。あなたは?」

「……レオハルトだ」




 それから少年は毎日外に出てきた。

 あの真っ白なコートを着て。

 少年は自分の好きなものをよく語った。

 柔らかくてふわふわした、肌触りのいいもの。

 甘い菓子やパンケーキ。


「……僕、冬生まれなのに寒がりなんです」

 少年は照れたように笑った。


「だから、冬が好きなんです」

「何故だ? 寒がりなら、もっと暖かい季節のほうがいいだろう」

「冬は外が寒いから、部屋の中にいるだけで幸せだし、ベッドも気持ちよくて大好き。

 お風呂やスープも。家のあったかい全部がご褒美になるんです」


 不思議だった。

 世の中に楽しいことなど一つもないと思っていたのに、この少年は『外が寒い』だけで楽しいことを無限に増やしていく。


「では、私も一つ貢献できるかな」

 レオハルトはポケットに入れていた蜂蜜の飴を少年に渡した。


「何ですか? これ」

「うちの料理人が持たせてくれたものだ。蜂蜜を飴にしてある。疲れによく効くのだと言っていた」

「蜂蜜? 聞いたことはあるけど、食べるのは初めて」


 少年はかじかむ手でそれを受け取り、手袋を外して包み紙を開いた。

「すごい、綺麗。宝石みたい」


 口の中に入れた時の至福の表情は、いつまでも目の奥に焼き付いている。

「……わ、美味しい!」


 ふわっと表情がとろけ、目を閉じてしっかりと味わっている。

 やがてその顔には幸せそうな笑みがともった。

 この少年には生の喜びが詰まっている。


「そんなに美味しいか?」

「舌がとろけそうです」

「それなら、明日にまたあるだけやろう」

「ほんとですか!?」

 少年の笑顔に触れて、自分が任務や義務以外でなにかをしたことに……レオハルトは初めて気づいた。



  ※  ※  ※



「ここが巣ごもり部屋だ」


 リオンを案内して、レオハルトは三階の最奥の扉を開けた。


「わあっ……」

 感嘆の声を上げて中に入っていく青年は、十年前と変わらない感性でその部屋を隅から隅まで観察している。


「柔らかいクッションや布がたくさん。

 水入れや蜂蜜壺も! このベッドは天蓋が低くて、本当に巣みたいですね」

「そのほうが落ち着くと思ってな」

「凄くいい感じです。早く絶食期が終わらないかな。発情期が楽しみになってきました」


 あまりにも楽しそうで、無理にはしゃいでいるのではないかと心配になってきた。


「しかし……発情すると……昔の嫌な記憶を思い出さないか?」

「昔の記憶は思い出しましたよ。レオが蜂蜜飴をくれたときに。

 ……それに、あなたはたった一人で僕を助けてくれた人じゃないですか」

「しかしアルファに襲われた記憶が残っていて……」


 レオハルトはそこで大きく息を吸った。

「……私を……怖がらないか?」


 リオンの瞳はまっすぐにレオハルトを見つめた。

「そっか、思い出しました」

「……何をだ?」

「レオの瞳の色……子供の頃の家の窓ガラスに似ているんです。

 冬の朝に室内から見る凍った窓の色。外は氷でも、内側はあったかい色です」

「…………」


「僕が混乱するか、心配なんですよね。

 でも、きっと大丈夫な気がします。

 僕はレオに頼る気満々ですから。

 ……僕の心配は、これからどんどん情緒が乱れていって……。

 あなたにもっと八つ当たりしたり、すねたりして困らせると思うんですけど」


「それは任せておけ。あなたが何を言っても可愛いとしか感じないし

 私の腕の中にいてくれるだけで……幸せ、だ」


 するりと口に出た言葉に、レオハルトは喉から胸までが、かあっと熱を持つのを感じた。


「十年、あなたを待っていた。この腕でなら、どんな感情も受け止めて見せる」

「呆れたりしないですか?」

「そんなあり得ないことを心配するなんて……まあ、じっくり証明してやろう」


 これから、自分は理性を手放すことになる。

 それでリオンを傷つけないか、それだけが不安だった。

 しかし彼が望むなら、全て与える覚悟をする。

 そしてそれが、蜂蜜のように甘い体験になることを祈るだけだった。

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