第31話 覚悟
「過食期……」
レオハルトの表情には、驚きと不安そうな表情が混ざっていた。
それでもリオンに対する瞳は真剣だった。
「……それで、セシル医師に……発情抑制剤を飲むか、聞かれています……」
リオンの声は最後には消え入りそうなほど小さくなっていった。
抑制剤に関しては、その家によって違う。
絶対に飲ませないというアルファもいれば、本能を暴き立てられるのが嫌だ、というアルファもいる。
レオハルトは、どちらなのだろうか。
彼自身も強すぎるフェロモンを抑制剤で抑えているから、飲むことを薦めるのだろうか。
「あなたはどうしたいと思っている?」
レオハルトからの問いかけに、やっぱり聞かれた……と思いながら、リオンは正直に答えた。
「迷っていて……というか、僕が決めていいんですか?」
「当たり前だ。あなたの体なのに」
その答えに安心しながらも、少し寂しく感じていた。
「……でも、たとえば、発情期になっちゃったら、どうなるのか……想像できなくて」
「あなたが発情期を迎えると決めたなら、私は夫として可能な限り一緒にいようと思う」
レオハルトの言葉は、責任感があって、愛されているという実感が湧いてくる。
でも、つまらない。
そんな理性的な言葉を聞きたいわけじゃないのに。
「レオにとって僕の発情期って、その程度のものなんですね」
つい呟いてしまってはっとした。
レオハルトはかなり面食らったようだ。
「その程度……とは? あなたのことを蔑ろにしたつもりはないが……」
「そうじゃなくて」
いいながら、汗が心をひやりとつたう。
今、リオンの心の中には本能と感情しかない。過食期に入って、理性がすっとんでいってしまったようだ。
「僕の体はもう、レオを求めてるのに……」
いつも理知的なレオハルトに、こんな感情的な言葉でしか返せないのがもどかしかった。
「レオは僕を求めてないの? 飲むな、くらい言ってくれても……」
最後は掠れてしまって、余計に情けなくなった。
レオハルトはこちらを見ていた。冷たい瞳で……呆れられてしまっただろうか。
「……わかった」
その言葉と共に抱き上げられて、レオハルトのベッドの上に運ばれてしまった。
「わっ、な、なんで……」
「ソファで向かい合ってする話だと思っていたが……違うようだからな」
レオハルトの大きな筋肉質の体が、肉食獣のようにリオンを組み敷いている。
下から見上げると、その体が格好良くて、支配されることの喜びがぞくぞくと立ち上がってくる。
「だめだ……いつもの僕じゃないかも」
「そうだな」
降って来たのは優しいキスだった。
いつもの彼なのに、いつもの自分ではない。
「冷静に考えられないなら、やめるか?」
「……やだっ、そうやって聞くの……たまには強引に……してほしい……」
「…………」
「……本能で、求められてるって……実感したい……じゃないと安心、できない」
口が勝手に動いていく。
彼が絶対にしないようなことを、なぜ言ってしまうのだろうか。
レオハルトはリオンを真っすぐに見つめた。
そのフロストブルーの瞳は、冷たいのになぜか温かい。
「……では聞くが、私の子を孕む覚悟があるのか?」
「……!!」
「発情するということは、そういうことだ。私の理性も……」
そこでレオハルトは一度言葉を切り、深く息を付いた。
「……もたない、きっと。その時になれば」
今までにレオハルトが理性を手放したことなどなかった。
こんなに強い男の理性が無くなる。
それは恐ろしいことのはずなのに、強烈に甘く痺れる毒の蜜のように、ひきつけられてしまう。
レオハルトは言葉を探しながら話し続けた。
「抑制剤を飲むな、とあなたが望む言葉を言うことはできるが……。
結果が、望み通りになるとは限らない」
「結果……」
「発情の最中は本能だけで動く。もうあなたの待ってもきかない。
……そして、あなたはこの小さな腹に、私の子を宿して……何か月も過ごすことになる」
レオハルトの手がリオンの下腹をすうっと撫でた。
彼の言葉も、声音も、ぞくぞくするほどの熱を内包していて、それに呑み込まれたくなる。
リオンはレオハルトの手を取り、もう一度自分の下腹に当てた。
ささくれた、剣だこだらけの手。そこからじんわりとした体温が伝わってきて、すさまじいほどに心臓が打ち付けている。
「僕は今、理性がとんでいて……支配されたい……孕みたいって気持ちしかないけど……後悔はしないと思う……」
「…………」
レオハルトはゆっくりと起き上がった。
「……巣ごもり部屋を準備しておく」
「今はしないの?」
「……過食期はしたくないんだろう。食欲のみに集中すると聞いている」
確かに、してもいいとは思っていたけど、欲情は感じない。
甘えたい、引き留めたい、という気持ちが強い。
「でも、キスはしたい」
「……まったく」
レオハルトは小さく息をつきながら、リオンを抱きしめた。
「今からこんなに振り回されていては、先が思いやられる」
しかしその語尾は、どこか嬉しそうに聞こえた。
※ ※ ※
目を開けると、逞しい腕に抱き込まれていた。
行為をせずに一緒のベッドで眠ったのは初めてだ。
昨夜、勢いに任せて一緒に寝たいと言ってみたら「寝たいときはいつでも自由に部屋に来ていい」と言ってくれた。
「発情期が近づいてくると甘えたくなって……」と、発情期にかこつけていつも言えなかったことを口に出している気がする。
しかし、そんな幸せな朝も、きゅう~と鳴り続ける腹の音で台無しになってしまう。
「……起きたのか」
身動きはしていないのに、腹の音で気づかれてしまった。
「お腹すいちゃって……」
「分かっている」
少しからかうように笑いながら、レオハルトは上体を起こした。
「昨日用意しておいたものを食べるか?」
ワゴンの上には、過食期の空腹に備えて、焼き菓子が並べられていた。
いつもなら喜んで口にする、大好きな甘い菓子たちだ。けれど今は、想像するだけで鳥肌が立つ。
「……すみません。やっぱり、グレープフルーツとクリームチーズのサンドイッチが食べたいです」
「すぐに用意させる」
ベッドで軽く朝食をとったあと、ふたりはリオンの私室へと移動した。
間もなく回診にやって来たセシルに、リオンは抑制剤を飲まないつもりでいることを告げた。
「そうですか! それは素晴らしいです!」
セシルは思わず立ち上がりかけて、慌てて椅子に座り直し⋯⋯咳払いをひとつした。
「……発情抑制剤の長期使用は副作用のリスクがありますからね……」
レオハルトはセシルのテンションをあまり気にしていないようだった。
ただ、目の前の医師を真っ直ぐに見つめて「……リオンの体は妊娠、出産に耐えられると思うか?」と静かな声で聞いた。
セシルの表情に、研究者のような鋭利な影が指した。
「もちろん体質や個人差はありますから、今の段階で絶対に大丈夫とは申せません。
しかし、持病もなく、器官系に顕著な虚弱は見られません。
ホルモンの分泌傾向や体格は標準的です。
妊娠・出産に耐えうる健康状態と見て、差し支えないでしょう」
「そうか……」
レオハルトの確認に、セシルはひと呼吸置いてから頷いた。
「念のために避妊薬をご用意しましょうか? 体への負担が少ないタイプです」
「リオン、いいな?」
「は、はい」
「……よろしく頼む」
「今夜から服用を始められるようにご用意しておきますね」
カルテに何やら書きこんだ後、セシルは細縁の眼鏡を指先で軽く押し上げた。
「……私はこれまで王立病院で、数多くのオメガたちを診てきました。
アルファたちがオメガを連れてくる理由は、妊娠出産が可能かどうか、その点だけでした。
つがいになる前にその価値を確かめておく必要があると……。
しかし、初めての発情を迎える前から、これほど真摯に、オメガの身体を案じた方は……」
一拍の間を置いてから、セシルは静かに微笑んだ。
「レオハルト様、あなたが初めてです」
その言葉に、リオンの目が少しだけ丸く見開かれた。
実感がじわじわと胸に満ちてきて、頬がじんわりと熱を帯びる。
「……もう出る時間だな、セシル医師、リオンのことを頼んだぞ」
「はい、お任せください」
「リオン、行ってくる」
「お気をつけて」
レオハルトは慌てたように部屋から出ていった。
扉の向こうに遠ざかっていく足音を聞きながら、二人は顔を見合わせて、共犯者のように微笑んだ。
その後を追うように、第三課、テルティアの鐘が鳴り響き、労働の開始を告げた。
「今日は遅めの出仕になりましたね」
レオハルトがいなくなったリオンの私室で、セシルが笑った。
いつも優しくて有能な医師に見えるのに、唐突に妙なテンションになるのは……気のせいだろうか。
「愛されてますよね。王宮に行くのを遅らせてまで、医師の説明に付き合うなんて」
「そうなんです。でもきっと……僕、おかしくなっちゃったんです」
「ほう!」
急に大きな声になったので、リオンは驚いてセシルを見つめた。
「……失礼、どんなところがでしょうか。詳しくお願いします」
開いたメモと視線に、ぐいぐい迫るような圧を感じた。
「レオハルト様は、僕のことを一番に考えてくれている。分かっているのに、それじゃあ足りないって思ってしまうんです」
「ふむふむ、たとえば」
「できないって分かってることをねだったり、してほしい訳じゃないのに甘えたり……自分でもよく分からなくて」
「……それはですね」
セシルは熱心にメモ帳にペンを走らせながら言った。
「とても正常な反応です。ちょっと本能的な話になってしまうのですが……。
発情期前にオメガは、アルファを確保する行動に出ます。
発情期には、アルファが寄り添い続けてくれる必要がありますよね。
つまり、愛があるかの試し行動なんです」
「……え」
――僕はレオを試していたのか。
あんなに真剣に向き合ってくれたのに、なんだか申し訳ない気がしてきた。
「まあ、子供が出来たらもっと理不尽に振り回されますからね。
当主のような理知的なタイプは、どこまで対応できるか試してみるのもいいのではないでしょうか。
どんどん我儘をいって困らせてみてください。
発情期を一緒に向かえるのであれば、それなりの器が求められますから」
「はぁ……」
「そして、リオン様がどんなわがままを言って、それに当主がどう返したか……事細かに、逃さず、次の回診のときに教えてください。
……そういった発情前の心理の変化が、とても、とても……経過観察に必要なので」
セシルの『とても、とても……』のところにかなり力が入っていて気になったが、一応「分かりました」と答えておいた。
「それと、昼食のことなんですが」
リオンは昨日のルシアンの様子が気になっていた。
「またブラムとルシアンに料理を作ってもらうんですか?
僕は今、どうしても体が欲しがるものしか食べられなくて……せっかく作ってもらっても、口にできないのが申し訳なくて」
「いやあ、昨日は料理対決みたいになっちゃって、私も反省しました。今日はルシアンさんだけに作って頂くようにお願いしてあります。もし食べれなかった場合は、またクリームチーズとグレープフルーツのサンドイッチにしましょうか……栄養が偏るので、昼だけは、なるべく別のものを食べていただけるとありがたいのですが」
昼食はルシアンだけに任せた、という言葉を聞いて、リオンはほっとした。
昨日は、ルシアンの料理だけ食べることができなかった。
……彼は一瞬だけ、傷ついた顔をしていた。
もうそんな状況は作りたくない。
昼になって、リオンはサロンに足を運んだ。
扉を開けると、そこには昨日と同じように、ブラムとルシアンが立っていた。
二人の前には、それぞれの料理が並べられている。……まるで、昨日の料理対決の再現のように。
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