第19話 リリカ
リリカの嫁ぎ先――法典院の次官、ザイレムに会えたのは、それからちょうど一月後だった。
通されたのは、小応接と呼ばれる部屋。広くはないが、堅牢な調度と余計な装飾のなさが、この空間の主の性格を物語っていた。
北側の一人掛けにザイレムが、正対する南にはレオハルトが腰かけている。
リオンは東の位置で、二人を交互に見るようにしながら、不安げに姿勢を正していた。
出されたお茶がゆっくりと湯気を立てる中、ザイレムは口を開いた。
「……さて。使者の文面には、私の側室、リリカについて、とあったな」
低く静かな問いに、レオハルトがすぐ応じた。
「はい。リオンの後宮時代の友人であると伺っております。
ご無沙汰のまま嫁いでいかれたとのことで、近況を一目でも知ることができればと」
「……リオン殿、ご自身のご希望か?」
視線を向けられ、リオンは緊張を抱えながらもきちんと応えた。
「はい。僅かでも、お目にかかってお話しできたら、嬉しいです」
ザイレムは、リオンに柔らかな視線を向けた。
「承知した。リオン殿、体調は大丈夫かな。香は強くないか?」
その思いがけない優しさに戸惑いながら、リオンは小さく頷いた。
「はい、大丈夫です」
次の瞬間、ザイレムがレオハルトに向き直ると、その声音はまた鋭さを帯びた。
「会わせること自体は差し支えない。ただし、手順がある。
まずはリオン殿と私の短い面談。
そして、その後でお二人の応対を少し拝見する。それでよろしいか」
「問題ありません」
ザイレムは体ごとリオンに向き直った。
「リオン殿、近衛騎士団長殿と共に暮らしていると聞くが……その日々に、何か困りごとはないか。
力づくの振る舞いや、過度な威圧など……心当たりがあれば、遠慮なく申してほしい」
リオンは思いがけない問いに目を見開いた。
「全くありません……むしろ、とても大切にして頂いています」
ちらりと隣を見ると、レオハルトは表情を動かさずにゆったりと腰かけていた。
「ふむ……だが、能力の高いアルファほど暴力や性衝動が強い。
近衛騎士団長殿ともなれば、王に次ぐほどのアルファだ。
狼はその牙がある限り、傷つけずにはいられない。……そうだろう、レオハルト殿」
「私の牙は守るためにある」
真正面を見据え、きっぱりと言い切ったレオハルトに、ザイレムの唇が僅かに綻んだ。まるで楽しいゲームに興じているかのようだ。
「ほう。口では何とでも言えるな。
しかし真実は日々の積み重ねの中にある。
リオン殿、騎士団長殿の膝の上に乗ってみることはできるかな?」
リオンは一瞬、何を言われているのか分からなかった。
膝に――? この緊迫した場面で? しかも、公の場なのに?
隣を見ると、レオハルトの表情が変わった。いつも二人でいる時だけの素の顔だ。
「ここへ」
膝をポンポンと叩く合図で、リオンは自然と立ち上がり、彼の膝にちょこんと腰を下ろす。
レオハルトの片腕が、慣れた手つきでリオンを支えた。
「これは……確かに、相当甘やかされているな」
ザイレムの相好が崩れた。
先ほどとは打って変わって、気のいいおじいちゃんのような笑顔を見せて笑っている。
呆気に取られて見つめていると彼は「いや、失礼」と言って姿勢を正した。
「試すような真似をしてすまない、レオハルト殿。実は私もリリカからお願いされていてね……リオン殿が辛い目に合っていないかと」
その言葉に、リオンは目の前の景色が優しく塗り替えられていくのを感じた。
この目の前の老人は、たくさんの側室を抱えていると聞いていたが、リリカのことをきちんと愛してくれている。
レオハルトと同じように。
「妻が望んだからといって、気難しい老人にわざわざ会いに来る男はいない。私生活も合格点のようだし、リリカにも心置きなく会わせられる」
不合格だったら面会を拒絶されていた?
いや、おそらくは何らかの手段を講じるつもりだったのだろう。
「リリカ、入ってきなさい」
「はーい」
軽快な足音と共に線の細い、女性と見間違うようなたおやかな青年が現れた。
だが、リオンは懐かしいより先に、恥ずかしさに顔を赤くしていた。
よりによって、レオハルトの膝の上で再会するなんて。下りるタイミングが掴めなかったが、何としても移動しておくべきだった。
「わあ、ラブラブ! 良かったあ」
にこやかに言われて、真っ直ぐに顔を見ることができなかった。
「あっちにお茶会の用意をしてあるよ! リオンの好きな蜂蜜のお菓子をみんなでたくさん焼いたの」
手を引かれてレオハルトを振り返ると、「宜しければレオハルト殿も」とザイレムは立ち上がった。
「わしも相伴しようかな」
「お邪魔では……?」
ザイレムの圧を前に一歩も引かなかったレオハルトが引き気味になっている様子に、リオンは小さく笑った。
「ぜひいらして下さい。みんな、リオンの旦那様を見たがってるので」
リリカの声に、皆で奥の部屋へ向かった。
そこからは楽しげな笑い声とバターの香りがただよってきていた。
帰りの馬車の中で、リオンはそっとレオハルトの袖を握った。
彼はすぐさま気づいて手を握りしめてくれた。
「疲れたか?」
「いえ……久しぶりに会えて……幸せそうで、良かった」
「きっと向こうもそう思っている」
リオンは、思い出したようにくすっと笑った。
「レオはずっと格好いいって騒がれてましたね」
「……ああいうのは……苦手だ」
「でも僕は嬉しかったです」
「あなたが満足なら……」
リオンはまだ余韻が冷めやらぬ様子で、ふうっとため息をついた。
「あんな形があるんですね。側室がたくさんいるのに、みんな仲良くて。後宮出身も三人いました。毎日おしゃべりして、楽しそうだった」
レオハルトはその言葉を微笑ましそうに聞いていたが、「いいな」と呟いたリオンをぎょっとして見た。
「……まさか」
「レオ、側室を娶りませんか? 後宮出身の僕の友達とか……」
レオハルトは真面目な顔でリオンを見つめた。
「私はあなた以外、抱く気はないからな。その子は生き地獄だぞ」
その直球で、リオンは真正面からノックアウトされてしまった。
本人はきっと無自覚で言っているのだろうから、余計に質が悪い。
〝あなた以外、抱く気が無い〟なんて……その言葉が嬉しすぎて、リオンは心の本棚にそっとしまい込んだ。
きっと、折に触れて開いてしまうのだろう。
「すみません。あまりよく考えずに……ただ、毎日楽しそうだなって思って……」
「いつでも訪ねてきていいと言われただろう。この馬車で好きな時に出かけるといい」
「この馬車を使っていいんですか?」
「もともとあなた用に買っておいたものだからな」
レオハルトの愛情はとても嬉しい。
こんなに用意してもらえるオメガなんていないだろう。
しかし同時に、その裏には一つの疑問が横たわっていた。
ザイレム卿のような地位あるアルファは、複数の側室を持つのが普通だ。
近衛騎士団長でありながら、ずっと正妻すら持たずに過ごすことなんてあるのだろうか。
ここに連れて来てくれた時の文官の言葉を思い出す。
『指名』そして『ずっと心を寄せていた』。
それが本当だとしたら、一体、いつから……?
リオンはレオハルトの横顔を見つめた。
輝きを失った金の髪が、夕日を受けて赤く染まっている。
今夜、聞いてみよう。彼に。
上品な箱型の馬車は、長い影を引きずりながらレオハルト邸を目掛けて走っていった。
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