第5話 初めての妻 ―前―

 シュッ——雨を裂く音で目が覚めた。

 天蓋とカーテンの内側は温かく、ふんわりとした布団には湯たんぽの熱がまだ残っている。

 リオンは用意されていたガウンを羽織ってベッドから降りた。

 暖炉の熾火がじんわりと部屋全体を包んでいる。


 シュッ——

 音のする窓に近付くと、ガラスから浸透してくる冷気で体が自然にぶるっと震えた。

 窓から見える空は重たい灰色だった。

 雪にはならない、霧のような雨は、風景を白くぼかしている。

 窓からすぐ下は中庭になっていて、二階のリオンの窓からはその風景を一望できた。


 ちらりと見えた影に目を凝らしていると、霧雨に滲んでいたその輪郭が、次第に人の姿を象っていった。


――レオハルト様!


 それに気づいた瞬間、リオンの心臓が痛いほどに波打った。

 レオハルトは黒い軍用シャツの袖をまくり上げ、逞しい腕が露出している。

 リオンは息を呑みながら、その光景に見入っていた。

 レオハルトが構えた長剣を振り上げた。

 肩がゆっくりと回転し、筋肉がしなやかに連動しているのが見てとれる。

 重たい長剣が朝の冷気を裂きながら振り下ろされた瞬間、足元の石畳に雨粒が跳ねた。

 瞬間、まるで見えない敵と舞うように、剣筋は弧を描き、流れるような連続技に繋がっていく。

 長剣のうなりが空気を震わせる音が、ここまで聞こえてくる。

 一連の動きが終わり、またレオハルトが剣を構えた。

 背中からゆらり、と白い蒸気が立ち上る。

 その熱気が、指先を伝って胸の奥まで染み込んでくるようだ。


「リオン様、朝のお支度を」


 背後から静かな声が聞こえて、リオンは硬直した。それからゆっくりと後ろを振り向く。

 いつ入ってきたのか、ジーンは押してきたワゴンの上で、朝の支度を始めていた。


「お顔をお拭き致します」


 温かいふわふわの蒸しタオルが顔に触れて――こんなに静かな朝の時間なのに、心臓は場違いに早いリズムを刻み続けている。

 寒い中庭で孤独に稽古をしているレオハルトと、ほんの少ししか離れていないのに、何という違いだろうか。

 首、手と拭いていたジーンの手がふと止まった。


「お体の具合でも悪いのですか?」

「いっ、いえっ!」


 心の中を覗かれた気がして、今度は心臓がひやりと冷えた。


「……そうですか、脈が早いような気がしたので……ではお召し替えを……」



  ※  ※  ※



「夜は寒くなかったか?」

 向かいに座った男の顔を見て、リオンはまた急激に心拍数が上がっていくのを感じた。

 ほんの少し前までは、中庭で剣の鍛錬をしていたのに、今は何事も無かったように静かに朝食の席にいる。

 冷たい雨の中、蒸気が立ちのぼるほどに高まった熱は、節度の鎧に覆われているのだろうか。


 けれど、僕の中には残っていた。

 まるで軽い火傷をしたみたいに、彼の近くにいくだけで、その温度が――胸の奥を疼かせる。


「……はい」


 小さく答えると、レオハルトは片眉を少し上げた。


「体調でも悪いのか? 顔が赤い」

「だ、大丈夫です! その、ちょっと暑くて……」

「そうか……オメガは寒いと体調を崩すと聞いて、整えたのだが……やり過ぎたかもしれんな」


――もしかして、あの過保護なまでの暖房は彼の指示のもとで行われたのだろうか。


 そう思ってしまったら、余計に気持ちが顔に出てしまいそうで――いけない、このままでは、変に思われる。


「失礼します、クレープのナッツと蜂蜜添えでございます」


 リオンの前に置かれたのは、後宮でよく食べていた朝食だった。

 ナイフとフォークで切り分けながら食べていると、レオハルトの前に置かれた皿を見て、視線が止まった。

 黒くゴツゴツした丸い塊に、煮た豆、そして干し肉……?

 レオハルトはあろうことかその黒い塊を手で掴み、無造作に引きちぎった。


――手づかみ!?


 フォークを口に運んだまま、リオンは思わず凝視した。

 指でつまんだパンの破片を口に入れたレオハルトは、そのリオンの様子を見て、小さく肩を揺らした。


「……そんなに珍しいか」

「あっ、申し訳ありません。不躾に……でも、その黒い塊は何なのでしょうか」

「王宮ではライ麦パンは食べないのだな」

「……パン?」


 パンといえば、白くてふわふわで、ドライフルーツがたっぷり入り、蜂蜜を添えて食べる――リオンにとっては、そういうものだった。


「手で食べるのですか?」

「そうだ、野蛮か?」

「……いえ」


 後宮ではとんでもないことなのに、不思議と不快ではなかった。

 しかし、レオハルトの指先から目が離せなくて……困る。


「本当はあなたと同じものを食べてみたかったが、朝からそれでは力が出ない」


 もしかして、彼は宮廷の食事に慣れてない……?

 いつも黒パンや燻製肉などを食べているとしたら、何故――宮廷料理を作れる料理人がいるのだろうか。

 宮廷料理はかなり高い技術と、専門の期間で勉強することが必要だと聞いたことがある。

 そんな料理人を、高い給料を出して雇う必要は――と考えかけて、はたと気づいた。


――彼の正妻が、王宮か貴族の方に違いない。


 しかし、昨夜は初日だったから特別にしても、今朝まで二人きりで朝食なんて、良いのだろうか。

 側室と過ごして頂けるのは嬉しいが、奥様に対して……失礼ではないのだろうか。

 とくとくと、また心臓が鳴り出して、リオンは目の前の騎士を見つめた。

 レオハルトはさっと食事を済ませると「先に失礼する」と言って朝食室から出ていってしまった。

 食事は本来ゆっくり楽しむものだが、まるで必要な燃料を補給できたらいいと言わんばかりだ。

 彼がいなくなった後の食卓は静かすぎて、クレープの食感や香り、そして大好きな甘みさえ、急に色褪せてしまった。

 けれども、彼の空っぽになった皿を思い出して、リオンはクレープを最後まで食べきった。

 



 私室に戻ると、ジーンが本日の予定を淡々と告げてきた。


「本日は必須のご予定はありませんので、ゆっくりお過ごしください。

 何かありましたらベルを鳴らして頂ければすぐに参ります」

「ゆっくりと言っても、何もすることが無いんですが」

「三階に書庫がございます。

 ご興味がありましたら後でご案内致します。

 他にご趣味や、やりたいことはございますか?」

「趣味……後宮では調香が好きでした」

「……それは……」


 ジーンは珍しく言い淀んだが、何度か瞬きをした後、言葉を続けた。


「……素敵なご趣味ですね。

ですがあいにく、この邸には香のご用意がなく……」

「そうなんですね……」


 香が無いなんて、どのように生活しているのだろう。


「もしよろしければ、リオン様から当主にお伝え頂けましたら、ご用意することは可能になるかと存じます」

「ありがとうございます、聞いてみます」

「それでは、もし他にご用が無いようでしたら、私はこれで下がらせていただきます」

「あっ、あの、」

「はい」

「お……奥様に……ご挨拶しなくて……いいのでしょうか」


 今までは打てば響くように応じてきたジーンが、その時初めて、止まった。

 語りかけているのに、彼が応じなかったのは初めてのことで、とんでもないことを言ってしまったのかと、リオンは身震いした。


「リオン様」


 ジーンは静かに告げた。


「この邸に、リオン様以外の奥様はいらっしゃいません」

「…………」


――それを何と表現すればいいのか。

 夜の空に突然飲み込まれてしまったかのような、未知の衝撃だった。

 いずれどこかの高官の側室になるようにと躾けられてきたリオンにとって、奥様のいる家に嫁ぐのは当たり前であり、その存在が無いということは完全に想定外だった。

「え」と呟いたまま、リオンは動けなくなってしまった。

 ジーンはリオンが衝撃から立ち直るまで、辛抱強くそのまま待ってくれていた。


「……申し訳ありません、わたくしが差し出がましいことを申し上げたばかりに……気付け薬をお持ち致しましょうか?」

「大丈夫です……でも、何か飲み物を頂けると嬉しいです。

 あとはちょっと……一人に、してください」

「かしこまりました。紅茶をお持ち致します」


 ジーンは気遣うようにリオンを見た。

 彼が感情らしきものを表したのは、これが初めてだった。



  ※  ※  ※



 夕暮れ――ヴェスパーの鐘が鳴り、レオハルトの乗った馬車が戻ってくる音が聞こえた。

 しばらくして、扉の前より家令ヴァルトの声が聞こえてきた。

「リオン様、当主より『今夜、晩餐室。主卓にて待つ』とのことです」

 主卓――正妻の席。

 〝側室の心得〟が音を立てて崩れていった。

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