第2話 騎士の誓い
――僕は後から、この身の隅々まで、何度でも刻まれていく。
彼がこの誓いを、どれほどの想いで捧げたのかを……。
※ ※ ※
玄関ホールには天窓から光が差し込んでいた。
平和で静謐な場所。
しかしリオンの目の前には信じられないほど衝撃的な光景が広がっていた。
王の直属である近衛騎士団長が、自分に向かって、まるで忠誠を尽くすようにかしずいている。
レオハルトは片膝を石畳に突いたまま、剣を目の前に立てた。
その柄に、静かに手を重ねる。
石壁のトーチが、彼のアッシュゴールドの髪をひそやかに照らす。
それはまるで――燃えているかのようだった。
「我が剣は、あなたの影に在り。
我が盾は、あなたの眠りを守る。
命尽きるその日まで、
あなたに仕えることを、誓う」
彼はその言葉を言った後も、顔を伏せたままだった。
星型のモザイク模様の中心に跪くその姿は、荘厳で、どこか神聖だった。
石畳にこんな模様があることなど、今の今まで気づいていなかった。
だが今は、それがまるで――
自分に向けて誓いを捧げるための印のように思えた。
長い沈黙がその場を支配した。
彫像のように動かないレオハルトに対して、リオンは体中が沸き立つような想いを感じながら、小さく震えていた。
「……顔を、上げてください」
リオンがようやく絞り出した声に応えるように、騎士は静かに立ち上がった。
完璧なほどに整ったその顔。
けれど、フロストブルーの瞳にだけ――微かな温度が宿っているように見えた。
「何かありましたらお呼びください」
それだけ言うと、レオハルトは背を向けた。
だが、その一瞬、沸点を遥かに超えるような温度の視線がリオンの胸を焼いた――気がした。
広い背中にマントがひるがえり、裏地の銀色がトーチの光にきらめいた。
漆黒の背が遠ざかるのを、リオンは呆然と見つめていた。
――今のは、いったい何だったのだろう。
目と耳は強烈に記憶しているのに、その意味に心が追いついていかない。
ふと、リオンの後ろで微かな気配が動いた。
先ほど案内してくれた家令が、扉の前に控えていたのだ。
「……リオン様、これよりお部屋へご案内いたします」
家令は静かにそう告げた。まるで、この場の余韻を壊さぬよう配慮しているかのように。
「は、はい」
リオンは家令について、広い階段を上っていった。
二階正面の廊下を進んでいくと、壁には肖像画や装飾品が飾られているのが目につく。
いくつもの扉を通り過ぎて、突き当りまでたどり着いた。
一番奥の部屋は、他よりもひときわ大きく、重厚な扉がついていた。
「リオン様のお部屋はこちらになります」
家令が開けたのは、その隣――奥から二番目の部屋だった。
扉が開いた瞬間、あたたかい空気がリオンの体を包んだ。部屋の正面には大きな暖炉があり、太い薪がゆっくりと燃えている。
それは朝なのに、もう半分ほどが炭になっていた。
ずいぶん早くから火を入れていたのだろうか。
部屋は小さなサロンほどの広さがあるのに、隅々まで暖まっている。
ソファやベッドなど一通りの家具が揃っていて、とても居心地が良さそうだ。
「どうぞ、お寛ぎください。後ほどお茶をお持ちします」
ヴァルトはそう告げて扉を閉めた。
リオンは手近な一人掛けソファを見つけると、そこにぽすんと座った。
パチッと薪がはぜる。
リオンは、外気とは異なる確かな熱が体の内に籠っているのを感じていた。
まるで、先ほどの彼の視線が、燃え移ったかのように。
リオンはその感覚を振り払うかのように、足を動かした。
毛足の長いラグに心地よく足を包まれて、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
――ここが僕の部屋?
ゆっくりと頭が動き出した。
ここに今日から住むのだろうか。こんな広くて豪華な部屋に?
後宮では一部屋に六人が寝泊まりしていた。それなのに、急にこんなに広い部屋を与えられたら、戸惑ってしまう。いや、それよりも――。
先ほど跪いてきたレオハルトを思い出した瞬間、心臓が痛いほど脈打ち始めた。
筋肉がありながら、しなやかな体躯はまるで大型の獣のようだ。
規律に抑制されているのに、その勇猛さは隠しきれずに滲み出ている。
魂に刻まれたかのような、その時の記憶をリオンはゆっくりと反芻した。
顔は精悍で、絵画のように目鼻立ちが整っていた。
ひざまずいた時の肩から背のラインはとても美しくて……。
――あれは、忠誠の誓い? まさか、僕に?
たぶん部屋が暖かすぎるせいだ。上気してしまった顔を、リオンは両手で覆った。
――いや、僕は何を考えているんだ!
馬車の中では、あんなに怖くて、逃げ出したいと思っていたのに。
当主が格好いいというだけで……ドキドキしてる……なんて。
あの神聖な雰囲気で、思い込んでるだけかもしれないのに。
そこまで考えた時、遠慮がちなノックの音が響いた。
「はっ、はい」
慌てて返事をすると「失礼いたします」と静かな声がして、扉が開いた。
その向こうには灰青色の制服に、白いサロンを腰下できっちり締めた青年が静かに頭を下げている。
「わたくし、リオン様付きの侍従補、ジーンと申します。お茶をお持ちしました」
見ると、手に銀のトレイを持っている。
「僕、専属の!?」
驚いて聞くと、ジーンは無表情にこちらを見た。
「はい、お気に召さなければ、すぐに代わりを。 当主より『リオン様の意に沿わぬことはしないように』と重々、言い渡されております」
「いえ、気に入らないとかじゃ全く……なくて……すいません、僕に専属の方が付いて下さるなんて、思ってもいなかったので」
困ったように笑いかけたら、ジーンの無表情の中に少し温かみを感じた。
「リオン様は当主のお相手ですから、当たり前のことです」
ごく自然にそう言って、持ってきたトレイをそっとソファのサイドテーブルに置いた。
湯気を立てているポットとティーカップに、ミルクと焼き菓子が添えられている。
「……あの、ここの当主って、レ、レオハルト……さま、ですよね」
(……レオハルト)
その名前を口に出すだけで、どくんっ、と心臓が妙な音を立てる。
「さようでございます」
「レオハルト様は……」
あまりにも緊張して、次の言葉を話す前にごくりと喉が鳴ってしまった。
「騎士……王の……」
それだけしか言えなかったが、ジーンは重々しく頷いた。
「はい、当主は近衛騎士団長でいらっしゃいます」
やはり、勘違いではなかった。この館の当主で、自分の『お相手』は、王の信頼が最も厚いと噂される、若くして近衛騎士団長まで上り詰めた男――だった。
喉はひりつくほど乾いていたが、手が震えていてカップを持てそうもない。
この『結婚』は、どのように決まったのだろう。オメガは何を基準に割り振られていくのか、そしてそこに『当主』の意思はどの程度入っているのだろうか。
文官から聞かされた『指名』という言葉が頭に浮かんだ。
――あの人が、僕を望んでくれたのだろうか……?
そんなはずはないと思いつつも、彼の真意を知りたいと思う気持ちを止めることができない。
もし、本当に望まれていたのだとしたら……。
リオンはレオハルトのことを考えるたびに、熱くなっていく体に狼狽していた。
てっきり、高齢の文官に嫁ぐものだとばかり思っていたのに。
――この人が、僕の『相手』だなんて。
いったい、どうしたら、心の準備が追いつくんだろう。
そしてきっと今夜は初夜がある。
『リオン様の意に沿わぬことはしないように』
それには初夜も……含まれているのだろうか。
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