白き奇跡とグルメの咆哮

そして、運命の日が訪れた。


数日間にわたる試行錯誤の末、カイルたちは、あと一歩で理想のパンに手が届く、というところまで来ていた。

以前のような、食べることすらできない失敗作はもう生まれない。

だが、カイルが語る「雲のように柔らかい」という領域には、どうしても到達できずにいたのだ。


「くそっ! 何が違うんだ! 生地の発酵も、捏ね方も、カイル様の言う通りにやっているはずなのに!」


トーマスが、己の無力さに苛立つように、テーブルを拳で叩く。

その時だった。

ずっと黙ってオーブンの前に座り込み、何かを分析していたカイルが、静かに立ち上がった。


鍵は、彼自身のユニークスキル【神眼】だった。


彼は、ただ窯を眺めていたのではない。

【神眼】を最大まで活性化させ、内部の、目に見えない熱の流れや、生地の中で起こっている微細な化学変化までを、完全に可視化し、分析していたのだ。

彼の網膜には、オーブンの内部が、まるで最新鋭のシミュレーション映像のように映し出されていた。


(……分かった。窯の中の温度分布に、僅かなムラがある。石造りの古い窯だ、仕方ない。右奥の温度が、他の場所より三度低い。このせいで、火の通りが均一じゃなかったのか。そして、乾燥した熱気が、パン生地表面の水分を奪い、硬い膜を作ってしまっている。これが、最後の壁……!)


「トーマスさん、窯の右奥の温度が少し低い。そこに濡らした麻布を一枚入れて、庫内の湿度を上げてください!」


「マリア、最終発酵を終えた生地の表面が少し乾いている。霧吹きで、三回だけ、ごく軽く水を噴霧してくれ!」


カイルの、まるで神託のような的確な指示が、厨房に響き渡る。

その声には、もはや子供の提案の響きはなかった。


全てを見通し、勝利を確信した、指揮官の威厳が宿っていた。

トーマスとマリアは、その気迫に押されるように、半信半疑ながらも、その言葉に寸分違わず従った。


そして、焼き上がりの時間を告げる、カイルが持ち込んだ砂時計の砂が、全て落ち切った。


厨房に、息を呑むような静寂が訪れる。

ごくり、と三人が固唾を呑んで、年季の入った窯の扉を見つめる。

トーマスが、汗の滲む手で、ゆっくりと、まるで祈るように、その扉を開けた。


その瞬間、厨房に、これまで嗅いだことのないような、暴力的なまでの幸福の香りが満ち溢れた。

芳醇で、甘く、そして人々を無条件に優しく包み込む、黄金色の小麦の香り。

その香りは、厨房の扉の隙間から漏れ出し、店の外の通りまで漂っていく。


窯から取り出されたパンは、まるで芸術品のように美しかった。

表面は、均一な、輝くような黄金色。

そして、それをパン焼き板(ピール)に乗せて取り出したトーマスの目が、驚愕に見開かれる。


「か、軽い……! まるで、羽毛を持っているようだ……!」


カイルが、そのパンを専用のナイフで、そっとスライスする。

サクッ、という小気味よい音がしたかと思うと、ナイフは全く抵抗なく、ふわりとパンの内部に吸い込まれていった。


現れた断面は、誰もが見たことのない、一点の曇りもない、純粋な「白」。

そして、そのきめ細かさ、しっとりとした質感は、明らかにこれまでの黒パンとは次元が違っていた。


「……さあ、食べてみてください」


カイルの声に促され、三人は、それぞれの思いを胸に、湯気の立つ一切れの白いパンを、震える手で口に運んだ。


最初に、声を上げたのはトーマスだった。

彼の、パン一筋で生きてきた職人の目が、カッと見開かれる。


「なっ……! なんだ、この食感は……! 歯が、ない……!? いや、違う! 歯を立てるまでもなく、舌と上顎だけで、ふわりと、とろけていく……! そして、この甘み! 砂糖は一切使っていないはずなのに、小麦そのものが持つ、生命力に満ちた、どこまでも優しい甘さが、口の中いっぱいに広がっていく……!」


彼の脳裏に、フラッシュバックが起きる。

パン職人になることを夢見ていた、若き日の自分。


初めて自分の焼いたパンを、今は亡き妻が「世界で一番美味しいわ」と、はにかんで笑ってくれた、あの日の夕暮れ。

トーマスの厳つい顔から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……わしは、わしは今まで、一体何を作ってきたんだ……! これこそが、わしが生涯をかけて追い求めてきた、本物のパンだ……!」


次に、マリアが歓喜の声を上げる。


「おいしーーーーい! なにこれ、なにこれー! ふわふわで、もちもちで、甘くて、ええええ!? 食べたはずなのに、口の中からなくなっちゃった! まるで、春の日の優しい雲を食べちゃったみたいだよ!」


彼女は、その場でくるくると踊りだし、喜びを全身で表現していた。


ーーーーー


その時だった。

店の外から、一人の男が、その尋常ならざる香りに誘われて、まるで夢遊病者のように、ふらふらと入ってきた。

歴戦の勇士として名高い、騎士団の古株、ゴードンだった。


「おい、小僧。今、とんでもない匂いがしたが……そのパンか?」


彼は、試作品の白いパンを、訝しげな目で見つめる。

カイルは、黙って一切れを彼に差し出した。


ゴードンは、それを無造作に受け取ると、無言で、豪快に口に放り込む。

そして――次の瞬間、奇跡は再び起きた。


百戦錬磨の騎士の、厳つい顔が、ふにゃりと崩れる。

その瞳からは、ぼろろと大粒の涙がこぼれ落ち始めたのだ。


「こ、この味は……! 若い頃、戦場で死にかけている時に、今は亡き妻が握らせてくれた、あの手作りのパンの温もり……! いや、それ以上だ! 柔らかく、甘く、優しい……! うおおおお、おかわりだ! あるだけ全部持ってこい!」


天を仰いで号泣する騎士の姿に、カイルとマリアは、ただただ呆気に取られる。

こうして、奇跡の「白パン」は、領地を揺るがす伝説の、第一歩を踏み出したのだった。

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