第3章 商人の娘と積み荷の行方
プロローグ 蜂蜜色の瞳に映る絶望
数週間後、七都市同盟の一角、港町として栄える商業都市は、活気に満ち溢れていた。
石畳の道をひっきりなしに荷馬車が行き交い、屈強な男たちの威勢の良い声と、天秤棒を担ぐ商人たちの呼び込みが、潮の香りと混じり合って喧騒を織りなしている。
その街の一角にある、清潔だが飾り気のない商館の一室。
クロエ・フォルクマンは、父親が取りまとめる山のような帳簿の整理を手伝っていた。
まだ七歳という幼さにもかかわらず、その蜂蜜色の瞳は、既に商人としての鋭い光を宿している。
彼女は、インクの染み一つない小さな指先で几帳面にページをめくり、数字の羅列の中から、まるで宝石でも見つけ出すかのように、利益と損失を的確に読み取っていく。
「お父様、こちらの輸送費、先月の記録よりも三割ほど高いようですが、何か理由が?」
「おお、クロエか。よく気づいたな。それは、帝国への関税が先月から引き上げられた影響だよ。まったく、あの国はいつも一方的だ」
父親であるグスタフ・フォルクマンが、感心したように娘の頭を撫でる。
その穏やかで、知的な時間が流れる室内の空気を、一人の男が乱暴に引き裂いた。
扉が勢いよく開け放たれ、父の旧知である、別の商会の長が転がり込むように入ってきたのだ。
彼の顔は土気色に青ざめ、その口は何か恐ろしいことを伝えようとして、わなわなと震えている。
室内の空気は、その男の登場と共に、一瞬で凍りついた。
「グスタフ殿……! 大変なことに……!」
「どうした、落ち着け。何があった」
男は、ぜえぜえと息を切らしながら、絞り出すように言った。
「……グリフォン帝国へ向かっていた、マーティン商会の隊商が……ウルフモウ渓谷で、山賊に……」
その言葉に、グスタフの表情が険しくなる。
男は、絶望的な事実を告げた。
「生存者は、いないそうだ。荷も、護衛も、全て……。まるで、悪魔にでも襲われたかのようだったと……」
カタン、と小さな音が響いた。
その言葉に、クロエの手から、愛用の羽ペンが滑り落ちたのだ。
床に落ちたペン先から、黒いインクの染みが、じわりと広がっていく。
だが、彼女はそれに気づくことさえできなかった。
ウルフモウ渓穀。
その地名が、彼女の頭の中で、まるで警鐘のように鳴り響いていた。
それは、数週間前に自分たちが通るはずだった道。
もし、あの時、あの辺境の少年の、不思議な言葉を信じずに。
もし、商人としての合理性を優先して、予定通り最短ルートを選んでいたら……。
ぞわり、と背筋を悪寒が駆け上り、冷たい汗が首筋を伝う。
今の自分たちは、あのマーティン商会と同じように、冷たい骸となって、渓谷の風に吹かれていたかもしれないのだ。
脳裏に、鮮明に蘇る光景があった。
ヴァルモト辺境伯領の、穏やかな日差しに満ちた城門の前。
自分をまっすぐに見つめてきた、あの深い、深い蒼色の瞳。
子供らしからぬ、全てを見通すかのような、真剣な光。
あの時の彼は、ただ熊を怖がる子供の顔などではなかった。
必死に、何かを伝えようとしていた。
破滅の運命から、自分たちを救い出そうとしていたのだ。
(あの忠告は、戯言などではなかった。彼は……カイル様は、この未来を、知っていた……?)
偶然ではない。
幸運でもない。
そこには、確信があった。
あの少年は、自分たち一家が辿るはずだった、破滅の運命を、正確に知っていたのだ。
『カイル様……あなたは、一体何者なのでしょう?』
震える唇から漏れた呟きは、誰に聞かれるでもなく、部屋の喧騒に儚く溶けていった。
彼女の中で、あの物静かな少年は、もはやただの貴族の子供ではなく、世界の理さえ左右する、計り知れない存在へと姿を変えていた。
――その全ての始まりは、数週間前。
ヴァルモト辺境伯領に、彼女たちフォルクマン商会の隊商が到着した、ある晴れた日のことだった。
まだ、彼女が何も知らず、ただの利発な商人見習いであった、あの日に。
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