エピローグ プログラマーの誓い

最初のデッドエンドを回避した翌朝、ナーサリーには昨日までの緊張感が嘘のように、穏やかな光が満ちていた。

カイルの元には、朝一番で領一番と評判の家具職人がやって来て、頑丈で真新しいベビーベッドを設置していった。その仕事ぶりは見事なもので、カイルが早速【神眼】で鑑定してみると、驚くべき情報が表示された。


【対象:ヴァルモット家特注製ベビーベッド(職人の魂の逸品)】

【素材:最高級メイプル材(魔物避けの紋様刻印済み)】

【状態:新品】

【耐久度:999%】


(耐久度999%!? ちょっとしたゴーレムの攻撃でもないと壊れないんじゃないか、これ……)


もはや過剰防衛とも言えるハイスペックなベッドに、カイルは思わず心の中でツッコミを入れる。昨晩の一件が、両親にどれほどの衝撃を与えたかの証左でもあった。もう寝返りを打ったくらいでは、この要塞のごときベッドはビクともしないだろう。


そんなカイルを、父であるレオン・ヴァルモットが、大きな手で優しく抱き上げた。昨夜の鬼気迫る表情は消え、今は深い安堵と、息子への慈しみがその瞳に浮かんでいる。


「……やれやれ、肝の冷える夜だったぞ、カイル」


レオンは独り言のように呟きながら、カイルを抱いたまま窓辺に立った。窓の外には、ヴァルモット辺境伯領の雄大な景色が広がっている。城壁に囲まれた小さな街並み、その向こうに広がる豊かな森と畑、そして遠くには険しい山脈。この全てが、父が守るべきものであり、そして自分が生きる世界なのだ。


父の腕に抱かれ、窓から差し込む柔らかな光を浴びながら、カイルは静かに自らの第二の人生に思いを馳せていた。昨夜の恐怖は、まだ肌にまとわりつくように残っている。だがそれ以上に、自らの手で運命を覆したという、確かな手応えが彼の魂を震わせていた。


(もう絶望している暇はない。泣き叫んでいるだけじゃ、何も変わらないんだ)


転生した当初は、この理不尽な世界に絶望し、無力な赤ん坊である自分を呪った。だが、今は違う。この【神眼】という力は、呪いではない。この理不尽極まりないクソゲー世界を生き抜くために、世界の創造主(あるいはただの気まぐれな神)が自分に与えてくれた、最強のデバッグツールなのだ。そう考えれば、少しだけ気分が楽になる。


(デッドエンド? 滅びのフラグ? 上等じゃないか)


カイルの脳裏に、前世の記憶が蘇る。納期前夜、エナジードリンクを片手に、モニターに映る数万行のコードと睨み合った日々。絶対に解決不可能だと思われた致命的なバグの原因を突き止め、朝日が昇る頃に修正パッチを完成させた時の、あの疲労感と達成感。


(前世で俺が潰してきたバグの数に比べれば、どうってことないさ)


心の中で、かつてのチーフプログラマー、佐藤翔太の顔が不敵に笑う。そうだ、これは挑戦だ。神が仕掛けた壮大なデスゲーム。ならば、プレイヤーとして最高のプレイを見せてやろうじゃないか。仕様の穴を突き、裏技を探し出し、誰も見たことのない攻略ルートを切り拓いてやる。


(この理不尽な世界で、僕が最高のエンディングを実装してやる。父上も、母上も、これから出会うであろう大切な人たちも、誰一人失わない。全員が笑っていられる、完璧なハッピーエンドをだ)


壮大な決意を固め、カイルが「やってやるぞ」と小さな拳を握りしめた、まさにその直後だった。

むず、むず……。


お尻のあたりから、なんとも言えない不快な感覚が這い上がってくる。最初は気のせいかと思ったが、その感覚は徐々に確信へと変わっていった。温かく、湿っており、そして少し、むず痒い。これは、まぎれもなく……。


(……とその前に、まずはおむつ交換という最優先タスクをクリアしないとな!)


世界の運命を憂い、壮大な誓いを立てた英雄(仮)の威厳は、生理現象という抗いがたい現実の前に、いとも容易く崩れ去った。優先順位(プライオリティ)は常に変動する。今の彼にとって、世界の滅亡よりも、このお尻の不快指数の上昇の方が、よほど緊急性の高いクリティカルな問題だった。


壮大な決意と、赤ん坊としての抗いがたい現実のギャップ。

カイルは再び、今度は母親の助けを求めるために、元気な産声を上げるのだった。それは昨夜の絶叫とは違う、少しばかり不満げで、しかし切実な要求を伝えるための、プロフェッショナルな「報告」の声であった。


元プログラマーによる、デバッグ不能な世界の攻略。その長く、そして波乱に満ちた物語は、まだ始まったばかりである。

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