天然理心流が強い影響を受けた?心極流剣術について

@kyknnm

天然理心流

 天然理心流てんねんりしんりゅうは現代でも人気がある新撰組、その幹部たちが修めた流派です。そのため現代日本でもトップクラスに有名な剣術流派の一つという印象があります。


 天然理心流は昭和末以降、小説や天然理心流関係者たちによってメディアで語られてきたため、以下の様なイメージがありました。


 ・多摩の農村に伝わった田舎の泥臭い流派

 ・幕末の試合剣術しあいけんじゅつとは違い真剣勝負に強い実戦的流派

 ・重い木刀で形をおこなう

 ・新撰組が使った多人数で連携する技術がある


 しかし、これらのイメージは実態を全く反映していない、ここ数十年で作られたイメージが多いと考えられます。最近、WEB上で語られたり、天然理心流の復元団体が復元した技を公開したり、雑誌記事に試合剣術であった事が紹介されるなどしています。また復元団体などへの取材などから漫画での天然理心流のイメージが若干変わってきている印象もあります。


 実際の天然理心流は、1700年前後から盛んになる、試合自由な打ち合い稽古を重視する諸流派(※1)、いわゆる試合剣術が盛んになり一般化する歴史の流れの中で登場し、広まっていきます。


 天然理心流の創流当時(1790頃)、天然理心流は新進気鋭の試合剣術流派だったと思われます。江戸後期に盛んになった回国修行の記録でも、天然理心流はそこそこ登場します。この流派から幕末に活躍した人が何人か出ているのは、試合剣術で他流と交流が多く人脈が広かった人が存在していたからでしょう


 幕末に活躍した人たちが修めていた流派、たとえば北辰一刀流ほくしんいっとうりゅう神道無念流しんとうむねんりゅう鏡心明智流きょうしんめいちりゅう直心影流じきしんかげりゅうを見ると、どこも他流試合を積極的にする流派ばかりです。江戸時代後期、江戸の剣術道場が日本各地の若者を結ぶ、ある種のサロンとして存在していました。志士たちの思想形成や人脈に剣術修行が役に立っていたというのは比較的知られていると思います。近藤勇の試衛館にも色々な人が来ていた記録がありますよね。


(なお、天然理心流は剣術と柔術を二つの柱にしていた流派のようで、他に居合、棒術などが含まれていました。棒術は柔術流派によく見られるように天然理心流では柔術に付随する形に近かったようです)


 最近、noteで小鮒草坊さんが天然理心流語りという記事を書かれており、非常に面白いので天然理心流に興味がある方は一読をお勧めします。

https://note.com/kobunakusabo/n/n8e7467d967c6


〇天然理心流の登場前夜

 これから天然理心流が登場する直前、開祖近藤内蔵助くらのすけが修行をして流派を創始しただろう、天明てんめい寛政かんせい頃(1772〜1789)、この頃の剣術について説明しておきます。

 戦国時代頃からシナイ(今で言う袋竹刀ですが撓、韜、柔刀、品柄など様々な字が使われます。)を使った試合的は稽古は行われていました。1700前後から直心正統流じきしんせいとうりゅう(のちに直心影流じきしんかげりゅうになる)などで防具着用がはじまり、安全面が高まります。

 直心影流は二代目の長沼四郎左衛門しろうざえもん国郷くにさと(1688-1767)※1の時代に全国に広まります。国郷の名声は「東都一」と言われ、当時の実質的な日本一の剣術家と考えられていたようです。

 その名声から各地の武士が学び、また各地の大名に国郷の弟子が召し抱えられ、ますます発展していきました。国郷の晩年の頃に江戸にいた岡山藩士三上元龍は、その著書『撃剣叢談げっけんそうだん』寛政2年(1790)で

近来きんらいの流をもって世にる者、江戸西座八幡前に長沼四郎左衛門という者あり、近代の上手にて門人甚だ多し、東都とうとにて第一と称せられしなり、もっとも門人にも傑出けっしゅつ多し。今も其子にや長沼栄蔵とて指南す(以下多くの有名な門人の名を挙げている)」

 と書いています。


 この他、鏡心明智流きょうしんめいちりゅう桃井春蔵もものいしゅんぞう、神道無念流の戸賀崎熊太郎とがさきくまたろう心形刀流しんぎょうとうりゅう伊庭いば家、浅山一伝流あさやまいちでんりゅう森戸もりと道場の森戸三太夫さんだゆう堤宝山流つつみほうざんりゅう武藤伝蔵むとうでんぞう小野派一刀流おのはいっとうりゅう中西なかにし道場、機迅流きじんりゅう依田新八郎よだしんぱちろう、田宮流塚原十郎左衛門つかはらじゅうろうさえもん神陰流しんかげりゅう今堀吉之助いまぼりきちのすけ(旗本)、雲弘流うんこうりゆまう比留川彦九郎ひるかわひこくろう真陰流しんかげりゅうの野澤八三郎のざわやさぶろう(旗本)などの名前が寛政頃の有名な剣術家として記録に残っています。これらのうち、前半の流派は幕末にも活躍するのでご存じの方も多いと思います。

 18世紀半ばから寛政初頭(1790頃)にかけて、江戸では既に防具着用で試合を行う流派が一般化しはじめ、他流との交流や全国を剣術修行する廻国修行者も増えています。

 ただし、まだ試合法や防具などは工夫発展している段階です。防具やシナイ(先ほど書いたように、当時の竹刀は袋竹刀です)は各流派で独自のものが考案され、多種多様なものが使われていました。


 たとえばある流派は籠手や面に加えて脛当や頑丈な竹胴たけどうを付け頑丈で重いシナイを使っていました。

 またある流派は軽い手袋と面金だけを被り、軽いシナイで打ち合います。

 またある流派は面を付け頭の上に座布団のようなものを載せ、左腕にだけ肘までの頑丈な籠手を付け右は短い手袋を付けていました。

 またある流派は面の代わりに笠をかぶりました。


 このように流派によって技法が違い、それにあわせて様々な道具が使われていた時代です。ですが、一般的に古流剣術と言った際にイメージされるような、決まりきった形を稽古するだけの流派はほとんどなく、多くの流派で何らかの形で試合的な自由攻防やそれに近い稽古が一般的に行われていました。

(以上、流派と師範は『剣之武并柔術』寛政5年(1793)、山内文庫など、稽古道具については富永堅吾『剣道五百年史』など参考にしました)



 ※1 軽米克尊『直心影流の研究」2020,国書刊行会 によると実質的に直心影流を名乗ったのは長沼国郷ではないかとされています。



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