第27話 二人が抱えた後悔 と 二人が流した涙 ②

 時は遡る――バトリア観戦のその夜。


 星々が、暗く沈んだ背中を淡く照らしていた。

 アリエルに捨て台詞を叩きつけたディランは、ひとり街を歩いていた。

 怒りを抱えたまま、ただ靴音を夜の石畳に響かせる。


 その背を、不意に鋭い声が呼び止めた。


「……おい、ヴァンパイアっ!!」


 足が止まり、ギラリと振り返る。

 ディランの瞳に宿ったのは、獣のような苛立ちと殺気。


「……あ゙ァ?」


 そこに立っていたのは――追いすがるように息を弾ませながらも、真っ直ぐ見据えるアリエルだった。


 ディランは鼻で笑い、挑発を投げつけた。

「殴られ足りなかったか? それともなにか? “天使”と“悪魔”で全面戦争でもやんのか? 所詮、クソ神野郎共の犬ふぜいが……!」


 だが、アリエルはその言葉に反応を返さなかった。

 代わりに地面に両膝をつき、翼を小さくたたむ。

 誇りをかなぐり捨てるような姿勢で、ただ真っ直ぐに言葉を吐き出した。


「カルティエの友人よ……俺は、カルティエを愛していた……今だって、愛している。本当だ! 危害を加えようなどと思ったことは、一度たりとも無い。――神に誓って」


 その声に、ディランの肩がピクリと動いた。


 ――愛している。

 その言葉を口にする男の存在が、どうしようもなく歯がゆく思えた。

 カルティエを想うのは自分も同じ。否、自分の方が――そう心の奥底で吠えるもう一人の自分が、胸を焼き焦がす。


 だが、それ以上に。


 アリエルが口にした「愛している」という言葉が、鋭い棘となって突き刺さった。

 自分には、カルティエに向けて決して言えなかった言葉。

 ずっと喉元で塞がり、言葉にする勇気を持てなかった想い。


 その言葉を、よりにもよって天使が、しかもためらいもなくカルティエに向けて口にする。

 ――それが許せなかった。

 そして、何よりも自分自身が許せなかった。


 胸の奥で煮えたぎる苛立ちは、アリエルへの憎悪と、自らの弱さへの嫌悪が入り混じったどうしようもない熱だった。


 だが、それでも。


 ディランは知っていた。

 世の常識として、そして敵である天使を嫌う自分でさえ理解していた。


 天使の言う「神に誓って」という言葉が、軽々しい方便や言い逃れで使われるものではないことを。

 それは、天使にとっては命と同義の誓約――絶対に偽ることが許されない重みを持つ言葉だった。


 ディランの奥歯がきしむほど強く噛み締められ、拳は爪が食い込むほどに握り固められていた。

 それでも――声が出なかった。

(……クソッ)


 それは軽い戯言ではなく、揺るがぬ真実から吐き出された言葉――その確かさが、むしろディランの胸を逆撫でした。


 アリエルはディランの怒りの真意など分かってなどいなかったが、かすれた声で言った。

「気の済むまで殴ってくれ……縛られたままでもいい、立ち上がる気力を失うまで痛めつけても構わない。構わないから……カルティエに、謝らせてくれないか」


 その必死の懇願に、ディランの胸の奥で何かが爆ぜた。

 アリエルに対する怒り――そして、自分自身への怒り。

 渦を巻く苛立ちに呑まれ、口にするつもりのなかった罵声が零れ落ちる。


「……そもそも、てめぇらのせいだろうが……」


 アリエルは、ディランの言葉をアフロディーテからの浄化の命令のことだと受け取った。

「え? ……あ、あぁ、そうだ。だが俺は――任務は放棄するつもりだったんだ……だから――」


「だまれえぇぇ!!!」

 夜の静寂を裂き、ディランの咆哮が轟いた。


「てめぇら天界の連中は、なぜ他種族の声に耳を塞ぐ……! 正義の名を盾に、どこまで身勝手で横暴でいられるんだ!」

 怒りの炎を瞳に宿し、ディランはアリエルを真正面から射抜いた。


「カルティエの呪いは“悲恋”……あいつが誰かを深く愛すれば愛するほど、相手の心は逆に遠ざかっていく。――それがあいつの“呪い”だ」


「――ハッ」

 

「十年前に刻まれた……てめぇら天界の呪いだ!」


 ――十年前。

 アリエルの脳裏に、仲間たちの笑い声が甦る。


(「これさ、一本ずつ全部呪いが違うんだってよ!」

「目隠しして、適当な方向に矢を放つ!」

「誰に当たるかわかんねえだろ!」

「お前もやるだろ? アリエル!」)


 それは、自分たちの――

 

 カルティエが受けた矢は、金でも鉛でもなく、よりによって――悲恋の矢。


(十年前……俺たちが悪ふざけで放った、その一本だ……)


 確証はない。証拠もない。

 どの矢がどんな呪いを秘めていたのかも、全く覚えていない。

 だが――唐突に理解してしまった。

 すべての始まりは、“あの日”の俺たちにあったのだと。


 

 ――神や天使は時に、イタズラをする。

 古の神話に語られるのも、その証だ。


 ある地域の神々は、人間を弄ぶように恋の矢を射かけ、望まぬ愛に引きずり込んだ。

 また、ある地域の神々は、気まぐれに与えた贈り物が争いの火種となり、幾多の血を流させた。

 

 天界の使者と呼ばれる天使でさえ、ある時は試練の名を借りて人を惑わせ、笑うようにその反応を眺めていたと伝わる。


 彼らにとっては遊戯にすぎない些細な行為が、地上の者にとっては一生を呪いに変える。

 ――それこそが、『天使の悪戯』ひいては、神々の悪ふざけの本質だった。

 


 アリエルはその場に膝から崩れ落ち、堰を切ったように涙を流した。

 流さずにはいられなかった。


「俺だ……俺がカルティエを苦しめたんだ……ごめん……ごめん……」


 その声を、ディランは「カルティエが誰かを愛したせいで呪いが発動し、傷ついた――そのことへの懺悔」だと受け取った。

 

 だが、アリエルの胸を引き裂いていたのは、それだけではない。


 ――十年前。

 無邪気な笑いの中で放たれた、七本の矢。

 そのうちの一本がカルティエの運命を縛ったのだと、アリエルは悟っていた。


 その告白にも似た謝罪は、ディランには決して届かない、もっと深い意味を孕んでいた。


 アリエルはなおも涙を流し続けた。

 その嗚咽は、子どもの頃の、あの何気ない笑い声のすべてを呪うような響きを帯びていた。


(俺たちは……ただのイタズラのつもりだったんだ。軽い気持ちで、イタズラ半分で矢を放っただけだったんだ……でも……その矢が……カルティエの一生を縛った……あいつを苦しめ続ける刃になったんだ……!)


 アリエルは、思いもしなかったのだろう。

 

 子供の戯れ、無邪気な笑い――それが誰かの未来を奪い去ることがある。

 小さな石を投げるような軽い気持ちで放った行為が、誰かにとっては致命傷になる。

 

 それは人の世でも幾度も繰り返されてきた現実であり、愛する人をも容赦なく傷つけてしまう残酷な真理だった。


 アリエルは床に崩れたまま、両手で顔を覆い、嗚咽を抑えられなかった。

「ごめん……ごめん……カルティエ……俺が……俺が……」


 その懺悔を前にしても、ディランは言葉を返せなかった。

 胸の奥では怒りと哀しみが渦を巻き、立っていることさえ苦痛だった。


(……神よ。私は――愛を履き違えていたのかもしれません。本当の“愛”とは、これほどまでに苦しいものなのですか。愛する者を傷つけることが、これほどまでに耐え難い後悔を生むのですか……?)


 問いかけは誰にも届かず、夜の闇に沈んでいく。

 静寂が二人を覆い尽くし、ただ涙の音だけが響いた。


(それよりも……私の愛する者の受けた屈辱と痛みは、私には計り知れない)


 アリエルは嗚咽の中で、ひとつの疑問のような――いや、確信にも似た思いに囚われた。


(美しいことが罪だと言うのなら……愛する者を傷つけた私は、いったいどれほどの罪を背負っているのだろう。その罪は、決して償いきれるものではない……)


 胸の奥に沈殿する後悔は、涙では流しきれなかった。

 それは“呪い”よりも深く、“罰”よりも重い。


 その涙は、呪いの告白であると同時に、この世に生きるもの全てが決して逃れられぬ罪の象徴でもあった。

 無邪気な悪戯が刃となり、愛が呪縛となり、後悔が生涯を蝕む。

 ――それが「愛」と「罪」とが交わる、あまりに弱く抗えぬ真実だった。

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