第13話 進む時計 と 止まった二人 ④

「たっだいまーっ!!」


「……」

 

 ―― 扉を開けた瞬間、静まり返った部屋の空気が広がった。

 カルティエは靴を脱ぎながら、ふと苦笑をした。


「……昔はさぁ、玄関まで飛び出してきて、“おかえり、姉ちゃん!”って……抱きついてきたのにぃ」


 今ではすっかり背も伸びて、表情にも棘が増えた弟。

 奥の扉からゆっくり現れ、無愛想にこちらを見下ろすライラは、かつての無邪気さを欠片も残していない。


「ただいま、ライラ」

 

「……おかえり」


 短い返事。

 冷たく聞こえるその声に、カルティエはかえって微笑ましさを覚える。

(あの頃の甘えん坊が、こんなふうに澄ました顔をするなんて……やっぱり、ライラも男の子ね。お姉ちゃんが気がついた時には『男』になってるんだから……)


「ちょっと一服ぅ……ライラ、コーヒー入れてくれる?」


「はーい」

 そう言うと、ライラは振り返ってキッチンへ向かった。


 買い物袋を床に置いたカルティエは、わざとらしく手を叩いた。


「ねえ、今日は私エクリプス休みだから……一緒にお風呂、入ろっか?」


 ――その一言に、キッチンにいたライラの肩がガタッと跳ねる。


「はぁ!? な、なに言ってんだよ! 僕はもうガキじゃねぇんだぞ!」

 

「ふぅん? じゃあ“お姉ちゃんと一緒にお風呂”くらいで動揺しないわよね?」

 

「うっ……! そ、それは……っ」


 顔を真っ赤にしたライラを見て、カルティエは唇に指を当てて小さく笑う。


「ふふっ、昔は“ねえちゃん背中流すー!”って、泡だらけで突撃してきたのにねぇ」

 

「や、やめろって! 変な記憶、お、思い出すなよな! そんな昔のこと、さっさと忘れろよ!!」

 

「でも……あの小さいお手々で一生懸命洗ってくれたの、気持ちよかったのよ?」

 

「~~~~っ!!///」


 ライラが両手で顔を覆ってバタバタする。

 カルティエは近づいて、わざと耳元でささやいた。


「ねえ、今日も……流してくれる?」


 熱い息が耳にかかり、ライラは飛び上がるように後ずさる。


「あっ、悪魔め!! ちっ、近づくなぁぁぁ!!」

 

「やだ、顔まっ赤。ほんとに悪魔級に可愛い弟」


 カルティエはいたずらっぽく片目をつぶり、買い物袋からボディソープを取り出すと胸に抱きしめた。

 白いボトルが胸元に押し当てられ、ふわりと香る甘い匂い。


「せっかくだから新しいの試そ? 泡、いっぱいにしてあげる」


「だから、僕は一緒には入らないってばぁぁぁ!!」


 慌てふためくライラの声と、お姉ちゃんの楽しそうな笑い声が廊下に響き渡る。

 ――結局、姉に翻弄されるのは昔も今も変わらないのだった。

 

「ほっ、ほら! コーヒー!! そ、そんなに誰かと風呂に入りたいなら、ディランと入ればいいだろ!?」


 ライラから押し付けられるように差し出されたマグカップを、カルティエは両手で受け止めた。

 温もりが指先を包むのを感じながら、彼女はふっと視線を落とし、ソファ前のテーブルにそっと置く。


 ――次の瞬間、思いがけない言葉がこぼれた。


「あいつは、私がいるとダメなのよ」


 唐突すぎて、ライラは思わず瞬きを繰り返した。

「……ん? なにそれ」


 カルティエは微笑んだ。けれどその笑みは、どこか遠いものを見ているようだった。

「ディランはね。私の傍にいることしか考えてこなかった……ううん、正しくは“あの日”から、そうすることしか出来なくなったんだと思う」


「あの日って……十年前の……あの日!?」


 問い返す声はどこか不安げで、けれどカルティエはあえて答えを急がなかった。

 カップに映る波紋をじっと眺めながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「誰も悪くなかった。けれど――この世に生きる者は、怒りの矛先をどこかに探してしまうものよ。ディランだって、そう……そうしないと、今後降りかかる痛みに耐えられないから」


 そして一度、息を呑むように小さく笑ってみせた。

「……その結果、ディランは“私を守れなかった自分”を憎んだの……。まるで呪われたのはディランの方みたいにね」


 カルティエの声は穏やかだった。けれどその奥に潜む深い哀しみが、ライラにはひどく重く響いた。


「私が傍にいる限り……ディランは、自分の幸せよりも私を優先する。そんなの、私が望まないわ」


 カルティエの声音は静かだった。けれど、その静けさがかえって強い決意を帯びているように聞こえて、ライラは思わず言葉を荒げた。


「そ、それは……ディランがお姉ちゃんのことを――」


 反論しかけたその声を、カルティエが柔らかく、けれど鋭く遮る。


「あー違う違う。ディランは……家族みたいな存在なの。ライラと同じくらい、大事な大事な――愛すべき存在」


「……」


 ライラは唇を噛みしめ、下を向いた。否定の言葉が浮かばない。

 カルティエはそんな弟の様子を見ながら、小さく微笑む。けれど、その笑みにはほんのわずかに苦さが混じっていた。


「それにね。今、もし私がいなくなったら……ディランは、きっと酒と女に溺れるわ」


 あえて軽い調子で言ったその一言に、ライラは慌てて顔を上げる。

「そ、そんなことないよ! ディランはとってもモテるんだから……女に溺れるなんて……ありえない!」


 その必死な否定すら、カルティエにはどこか愛おしく映った。

 肩をすくめ、からかうように小さく笑う。


「そうね……そうかもね」


 けれど――その眼差しはほんのわずかに陰を帯び、冗談では済まされない“もしも”を静かに見据えていた。


「どんなに月日が流れても、大人になっても……あの日のまま。私も、ディランも、止まったままなのよ」


 カルティエの呟きは、まるで時を凍らせるような静けさを帯びていた。

 ライラは思わず、気を紛らわせるように声を上げる。


「な、何言ってんのさ。子どもの頃の話でしょ? 今は二人とも立派な大人になってさ……お姉ちゃんなんて世界中の憧れなんだろ? ……僕には意味不明だけど」


 わざと軽口を叩いたつもりだった。

 だがカルティエはその言葉にふっと笑みを浮かべ、次の瞬間、がばっと身を乗り出す。


「言ったなあ!? 可愛い可愛い私の弟めっ!」


 ライラの頬を両手でむにゅっと挟み、顔を近づける。

「そんなこと言うなら――無理やりお風呂に連れてっちゃうぞぉ!? 姉ちゃんとラブラブ入浴タイムだぁ!」


「や、やめろってば! 顔近いし! てか、そういうのが一番ウザいんだっての!!」


 真っ赤になって暴れるライラ。

 カルティエはその様子を見てけらけら笑い、わざと離さない。


「ふふっ、やっぱり弟って可愛いなぁ。あーもう、ほんっとに可愛い」

 

「可愛くねぇよ! もう子どもじゃねぇんだぞ!」

 

「そう言う子どもっぽいこと言うのが、子どもなのよっ」


 姉と弟の声がリビングに響き渡り、さっきまでの重苦しい空気は跡形もなく消え去っていた。


 ◆


 夜の帳が降り、エリュシオンの街に灯る無数の光が宝石のように瞬いていた。

 その最も高い時計台の上に、一人の天使が腰掛けている。


 闇を払うように広がる翼は、夜気に溶けながらも純白の輝きを失わない。

 羽ばたくことなく、ただ静かに――それだけで、星々に匹敵するほどの存在感を放っていた。


「……除呪や除災の呪を扱える魔法生物など存在しない。ましてや、神の呪いを打ち消せるほどの大魔道士など……ありえない」


 アリエルの低い声が、時計台の鐘の金属音に吸い込まれるように夜空へ溶けていく。


「つまり――神呪を解けるのは、神々そのもの……」


 彼の瞳は、きらめく街明かりから、より遠く冷たい天の星々へと移ろっていった。

 瞬間、ひとつの言葉が零れる。


「あるいは……“Dear”の継承者なら――」


 その名を口にしたとき、胸の奥にかすかな熱が灯る。


 おとぎ話に語られるのは、神すら凌ぐ伝説の存在。

 かの者の名を知る者は少なく、ただ「Dear」と刻まれし文字とともに記憶を継承する者だけが、その正体に触れることを許される。

 彼らはあらゆる種族を超越し、あらゆる存在の頂点に立つ――そう、人々は畏怖と憧憬を込めて語り継いできた。

 

 ――けれどそれはすぐに冷め、子どもが夢物語を信じるような淡い火に過ぎないと自覚した。

 アリエルは自分を子どもの姿に重ね合わせ、思わず鼻で笑った。


「はは……俺は何を。愚かな考えだ。……あのカルティエが呪われているなど、あり得ない。嫉妬に目を曇らせた誰かが吐いた、妬みの声……それ以上のものではあるまい……」


 笑みは小さく、それでいてどこか苦い。

 高き塔の上、星明かりと街の光の間で、天使は孤独に微笑んでいた。

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