40,四ノ宮澪の風/八神先輩の血管/合流と余韻
澪がスマホと小さなマイクをブースに置く。
「これを……曲の中に。Bメロの裏、ほんの小さく」
再生されるのは校庭の風、電車、夕方の鐘。遠い犬の声が偶然、サビ前に重なる。
部屋の空気が、一瞬だけ校庭の湿度に置き換わる。
先生は一拍おいて、にこり。
「景色を録りましたねー。場所の記憶は、音で残りますー。今日は、このスタジオの呼吸も、少し混ぜましょう。廊下の空気、ドアの閉まる音、遠い笑い声――“ここで録った”証拠に」
風が薄く重なるだけで、曲に“深呼吸”が生まれる。
サビの一秒前が伸びて、そこに夕方が入る。
演奏している僕らの中に、同じ風景が共同で立ち上がる。
「……好き」弥生が小さく言う。「景色が映った」
■
八神先輩はケーブルを抱きしめるように手に取り、短く言う。
「俺は、繋ぐ」
差し替えのたびに「よし」。ノイズは一つも出さない。
ケーブルの這わせ方は、まるで血管図。どの線も他を邪魔せず、最短だけど、きれいな回り道をしている。
「……血管、完璧ですねー」先生が笑う。
「血液の滞りは、音の死」八神先輩は短く返し、腕を組む。「今日は循環、良好」
「名言っぽい!」弥生が笑い、空気が一段やわらぐ。
緊張と緩みの配合が、やっと「うちらの黄金比」に近づいていく。
■
二日間。
限界まで音を削り、刻み、重ねた。指の皮がめくれ、声がかすれ、画面には何百というテイクが並ぶ。テイク番号が三桁になったとき、五十嵐はスクロールバーを撫でて小さく笑った。
「足跡だ」
最後の音が、静かに終わる。
スタジオの空気が一拍、無音になる。
その無音は“完成前の余白”で、誰も勝手に埋めない。
「――おつかれさまでしたー」
先生の声は柔らかく、でも刃は仕舞わない。
「今日の音は、未来への切符ですー。便利も不便も、綺麗も粗さも、全部“あなたたちの音”。プリプロで見つけた“直すべき点”は、本番で“生かすべき点”にもなりましたー。よく、戦いましたねー」
静寂。
そして次の瞬間、全員の胸から同時に息が溢れる。
誰も拍手しない。歓声も上げない。
ただ、互いの顔を見て、笑う。
録音という戦場を、確かに越えたのだ。
ガラスに映る僕らの顔は、部活の顔でも、クラスの顔でもない。
音に名前を刻む人の顔になっていた。
「……帰ろっか」弥生がギターケースを抱え直す。
「その前に、ケーブル巻きます」八神先輩。
「保存とバックアップ、三重」五十嵐。
「倍音、おかわり」彩月。
「それは家!」僕。
笑いながら、スタジオの灯が一つ、また一つ落ちる。
廊下は黒。階段の擦り傷は、来たときより少しだけ“味方”に見えた。
扉の外の空気は冷たいのに、手のひらはじんわり温かい――
たぶん今日は、全員の“普通”が少しだけ遠くなって、音の方が近くなった日だ。
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