37,全員での挑戦/プリプロ宣言

 クリックが再び走る。

 全員が目を合わせ、深呼吸をそろえる。冬合宿で染み付いた“吸って・待って・落とす”の三拍が、無言で共有される。

 彩月のガンクがぽうんと“水”を落とす。

 弥生のストロークが空気の角を取る。

 六条のクランチが薄い影を床に描く。

 五十嵐の打ち込みは“便利”を5%崩して“人間”に寄せる。

 澪の環境音が隙間に呼吸を置く。

 美羽のコンデンサーは空気の肌理(きめ)を一段持ち上げ、白い息の輪郭を残す。

 八神先輩のケーブルは、目に見えない流れを整え続ける。

 僕は背中から声を押し出す。喉を使わず、体の広い面で空気を押す。言葉を前に投げ、母音を床に置く。サビ頭の“じゅ”を前歯で跳ねさせ、最後の“る”は甘い息で溶かす。

 音が重なった瞬間、れい子先生がにこり。

「はい。今のは“音楽”でしたねー。細かいところ、行きますよー。弥生ちゃん、三小節目のアクセント1mm削る。六条くん、コンプ深さ-2で刃先だけ。五十嵐くん、クラップのベロシティに3%ランダム。澪ちゃん、風は-3dBで床。美羽ちゃん、マイク角度を“二度”寝かせ。八神先輩、白テープ、今日も美しいですー」

「総評が細かい!」

 笑いと真剣が同居した、「うちの普通」が戻ってきた。



 すべて録り終えた頃、時計は八時を過ぎていた。

 ペットボトルが机に横たわり、ケーブルはあちこちで眠りに落ちる。なのに、空気だけは不思議と澄んでいた。出し切った音の“粗”が床に落ち、呼吸だけが軽く浮いている。

「今日の録音は終了ですー」

 れい子先生が手を叩く。柔らかい音なのに、締めの鐘みたいに響く。

「ただし、今日のは“プリプロ”ですー。本番前に流れを検証する“仮録音”。テスト走行ですねー」

「プリプロ……?」美羽が首を傾げる。

「本番の地図」五十嵐が短く言う。「間違えるなら今日。失敗の位置に付箋を立てる」

「そうですー。仮でも本気でやるからこそ、本番で余裕が出ますー。どこを伸ばして、どこを削るか、紙に残して寝てください。脳は寝てる間に整いますー。明日、“正しい勘違い”が減りますー」

 最後の一言だけ、刀身がきらりと光る。

「――ということで。来週、本番ですー。中野の地下スタジオ、二日間押さえてありますー」

「「「二日!?」」」

 部室が一斉に揺れた。

 驚き、期待、恐怖。三つの感情が同時に胸を突き刺す。

「弦、あと二セット要る!」弥生。

「電源タップ、持ち込み。アース、独立」六条。

「セッション名、今夜整理」五十嵐。

「倍音、おかわり」彩月。

「それは家で!」僕。

 笑いが落ちて、覚悟が立つ。

 僕は無意識に胸ポケットを触った。そこに“あの紙”がもうないとわかっていても、指先は昔の角を探した。


■スタジオ到着


 その週末。

 中野の裏通り。

 看板に「Studio Ark」とあるが、地上からは目立たない。古いビルの地下入口。階段のコンクリを、無数の機材ケースが過去に削った擦り傷が斜めに走っている。踏むたび、過去のバンドの残響を踏みしめる気がした。

 鉄扉を開ける。冷たいコンクリの匂い、わずかに焦げた電子機器の匂い、乾いた木の匂い。廊下の壁は黒。色あせたポスターが斜めに貼られ、見たことのない海外バンドのジャケットが並ぶ。奥からは遠いスネアのチェック音と、誰かの笑い声。

「……すげぇ」弥生の目が丸くなる。「音の埃まで歴史ある」

「音の匂い」彩月がぽつり。「……じゅるり」

「ここでも!」僕が即ツッコミ。

 重たい防音扉を押し開けると、さらに厚い静寂。外の喧騒は溶け、蛍光灯のジジッと空調の低いうなりが空気を支配する。カーペットは深く沈み、足音が上品に吸われる。壁には吸音パネル。床のケーブルは“規則”という名のアート。ドラムは黒光り、ピアノはカバーの下で呼吸を潜め、ラックのコンプやEQは点滅で会話している。真空管の島だけ、空気がほんの少し暖かい。

「ここが……プロの現場……」美羽の声が震える。マイクケースの留め具が緊張でカチカチ鳴った。

 澪はレコーダーを構え、壁の残響をひそやかに録る。「反射、三段……抱きしめる音。左右の初期反射が遅い……好き」

「――ようこそ、スタジオへ」

 背後から、ミント色のカーディガン。神前れい子先生が赤いPRSを背負って立っていた。笑顔はふわふわ、背後の空気はぴん、と張る。

「今日から二日間。ここで、あなたたちの“本当の音”を記録しますー。プリプロの付箋、全部見せてくださいねー。順番に、潰していきますー」

「潰すって!」全員が半歩たじろぎ、そして笑った。

 緊張と期待――両方で、

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る