29,美羽・澪編:音の居場所を探す耳

「美羽ちゃん、ちょっといいですかー」

 ふわっとした声とともに、神前れい子先生が背後から現れた。

 全員が「またいつの間に!」と跳ねる。

「えっと……はい! 私、セッティング完璧です! パターンも全部試します!」

 美羽が胸を張る。

「ですねー。でもー……完璧って言葉、マイクにはないですよー」

 先生はにこにこと笑いながら、美羽の手元に目を落とす。

「マイクは“耳”ですー。セッティングでどこを向くかで、拾える景色が全部変わりますー。完璧はなくて、“相性”だけなんですー」

「……相性」

 美羽が目を丸くする。

「そう。例えば七海くんの声を録るならー、口から30センチ、ちょっと下に構えてみるといいですよー。胸の響きが乗るから、“太さ”が出るんですー」

 先生が実際にC414を少し角度を変えてみせる。

「ほら、美羽ちゃん。今度は澪ちゃんに弾いてもらって」

「わ、私ですか」

 澪が控えめにギターを爪弾く。

 先生が位置をちょっと変えるだけで――同じギターなのに、さっきより艶のある音が返ってきた。

「……え、なにこれ。全然ちがう!」

 美羽の目がさらに輝いた。

「はいー。だからねー、マイクは“恋人”じゃなくて“鏡”なんですー。相手のいいところをどう映すか、それが大事なんですよー」

「……っ!」

 美羽は思わず両手でマイクを抱きしめた。

「私、この子と絶対もっと仲良くなります!」

 その真剣な眼差しに、澪が小さく笑った。

「……やっぱり、マイクオタクだ」

「オタクじゃない! 愛よ!」

 即答。

 先生はそのやり取りを眺めながら、ひと言だけまとめた。

「愛でもオタクでもいいですよー。ただしー、“音を愛せるオタク”は、必ず強くなりますからねー」

 その言葉に、美羽はますます決意を固めた表情を見せた。

 C414を抱える腕に、力がこもる。

――マイクの膜がまだ震えているうちに、澪が窓際で手を挙げた。「……今の空気、録らせて」



 個人練習の時間。

 スタジオの隅、澪はノートPCを広げ、外付けコンデンサマイクを三本立てていた。

 壁際、ドラム横、そして窓の近く。

 ケーブルがシャラシャラと絡まり、机の上には波形ソフトが立ち上がっている。

「……空気の揺れ、全部録りたい」

 小声で呟きながら、澪はイヤホンを片耳だけ挿し、録音ボタンを押す。

 無音のようでいて、画面には小さな波形が現れた。

 アンプが発する微かなハム。床を踏む靴の軋み。外から聞こえる風が壁に触れる音。

 全部が、彼女にとっては「音楽の一部」だった。

「……やっぱり、ノイズも生きてる」

 澪は目を細め、指先で波形をなぞった。

 彼女にとって、音楽は楽器だけじゃない。世界そのものが楽器だった。



「四ノ宮さん」

 背後からふわっとした声。

 振り返ると――やはり、神前れい子先生が立っていた。

 まただ。どうしてこの人は、忍者みたいに音を立てずに背後に現れるのか。

「ひゃっ……せ、先生」

 澪は思わずマイクスタンドにぶつかりそうになる。

「ふふ。ごめんなさいねー。で、何を録ってたんですかー?」

「……空気です」

 即答だった。先生はぱちりと瞬きをして、にっこり笑う。

「いいですねー。音楽は“空気の芸術”ですからー」

「でも……録っても、混ぜると埋もれてしまって。

 私の録る音、居場所が見つからなくて」

 澪は唇をかんだ。

 この合宿に来てから、周囲の先輩たちの“音の強さ”に圧倒されっぱなしだった。

 弥生の鈴鳴り、六条の歪み、彩月のガンク……。

 自分の録音した音は、どうしても後ろに消えてしまう。

「なるほどー」

 先生は一歩前に出て、澪のノートPCを覗き込む。

 波形を眺め、再生ボタンを押した。

 スピーカーから「す……ざざ……」と環境音が流れる。

 その中に、ドラムのスティックがカチ、と床に当たった音が小さく混じっていた。

「……今の、聴こえました?」

 澪は目を見開いた。

「もちろんですー。音は全部に意味がありますー」

 先生は軽く指を鳴らし、スタジオの中央を指さした。

「ただー、“居場所”を作るのはあなた自身ですー。音を避けるんじゃなく、あえて“かぶせる”。すると、逆にその音が強調されるんですー」

「かぶせる……?」

 澪は呟き、波形をいじってみた。

 ガンクの高音の倍音に、自分が録った湯気の“しゅん”という音をあえて重ねる。

 普通なら消えそうなノイズが、逆に倍音を引き立てて響いた。

「……聴こえる」

 澪の声が震えた。

 今まで邪魔だと思っていた音が、旋律に“表情”を与えていた。

「そう、それですー。音は敵じゃない。全部が楽器。

 居場所を与えれば、ちゃんと歌い出しますよー」

 先生の柔らかな声に、澪の胸が熱くなる。

 録音オタクだと笑われるかもしれない――でも。

 ここでは、その“耳”が肯定された。

「……もっと録りたい」

 澪は拳をぎゅっと握った。

「この合宿で、絶対に“音の居場所”を見つけます」

「いいですねー。録った音がバンドを支える日、きっと来ますよー」

 先生はにこにこしながら、澪の頭をぽんと撫でた。

 澪は真っ赤になりながらも、イヤホンを耳に押し込み、再び波形を睨み始めた。

 スタジオの中に散らばる小さなノイズが――今は、宝石のように思えた。

――波形の上に薄い線が一本。れい子先生が手を合わせる。「じゃあ――全部、合わせましょうか」

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