第二十九話 いざ、四階層へ!

 休日明けの朝は、思っていた以上に肌寒さが身に染みる。協会が用意してくれた宿舎に無料で寝泊まりさせてもらっている以上、贅沢は言えない。硬い布団にもすっかり慣れた、けどもう少しだけ設備が整っていたら、という願いは、やはり贅沢なのだろうか。


 それでも、昨日の充実感のおかげか、ここ数日続いていた疲労の影が、嘘のように消えている。


 新品の防具に身を包み、六尺棒を肩に担いだ僕――新田純之介は、一階層へと続く大広場へと足を進めていた。


 零階層の朝は毎日、穏やかに訪れる。古都を思わせる町並みに淡い霧がたなびき、朱塗りの門や瓦屋根の上に朝日が優しく降り注いでいる。ここには魔物もいなければ、血の気さえ感じられない。この平穏な階層もまた塔の一部であることを、時として忘れそうになる。ただ、次に挑む階層へ向けて心を整える者たちの気配だけが静かに満ちていた。


「あ、おはよう清龍」


「もすもす!」


 人混みの向こうに見慣れた仲間の姿を見つけた僕は自然と歩調を早めた。まず目を奪われたのは、雷門清龍の新調された装備だった。

 

 以前より軽やかでありながら、より精緻に鍛え上げられた蒼銀の軽鎧。速度を加速させる彼の加護『飄の導き』との相性を追求した装備らしい。腰で交差するように佩かれた双剣は、風のささやきに呼応するかのように、かすかに揺れていた。


「よう、棒切れ野郎。おめぇ、今日もおせーぞ」


 嫌みを吐く言葉を無視して、軽く手を上げて挨拶してくる清龍に、こちらも同じように手を挙げて応える。視線を移せば、腕を組んで仁王立ちする根川哲司の姿。


 加護『武士』の持ち主である彼は、今日も堂々たる体格を動きやすい胴丸で覆い、腰には真新しい打刀を佩いている。鞘の装飾は最小限に抑えられ、戦場での実用性が重視されていることが一目で伝わってくる。一切の無駄を排した、根川らしい選択だった。


「おはよ~純!」


「うん、おはよう」


 続いて視線を引いたのは、舞さん――否、舞の姿だった。


 白と紅を基調とした巫女装束は戦闘用に改良されている。

 裾は短く絞られ、袖口も動きを妨げないよう裁断している。腰には、加護『付与術士』の強化術を増幅させる幣。背に立てかけられた槍は、夕闇に沈む鋼色を纏い、静かに佇んでいる。


 無骨ながらも力強いその槍は、まるで彼女の影のように、あるいは第二の脊梁のように、彼女の存在を無言で補強している。


 舞の加護は仲間の武器と身体能力を強化する。今日も、あらゆる局面で彼女の術が僕たちの戦いを支えてくれるに違いない。


「やっほ~純之介。君も準備万全だね~」


 最後に姿を現したのは左近寺柚希。加護『鷹の眼』を持つ彼女は、鋭い眼光と並外れた集中力で、視界に入った敵を百発百中で射貫く遠距離射手。

 

 装備もその役割に徹底して特化している。新調された長弓を手に、視力強化の陣法が刻まれた手袋を装着。

 腰の矢筒には状況に応じて属性矢を含む多種多様な矢が収められ、瞬時の切り替えが可能。…なお、矢尻の値段の高さには、彼女も度々音を上げ、舞に涙目で愚痴る姿を僕は幾度か目にしている。


 服装は軽装の狩人風。蒼灰色の外套は膝上丈で、肩から肘にかけては矢の摩擦に耐える黒鹿皮が補強として縫い込まれている。無駄な装飾は一切なく、胸元で交差する革紐も、動きやすさを追求した結び目で固められている。ちらりと覗く小麦色の肌は、日焼けの名残だろう。


 足元は簡素なブーツではなく、軽量かつ静音性に優れた狩猟靴を履いている。


「(みんな、しっかり準備を整えているな)」


 僕は心の中でそう呟き、昨夜丹念に手入れした六尺棒を握り直す。


「四階層の地図は前もって購入済み。そろそろ行きましょう!」


 柚希の朗らかな声を合図に、我々は一斉に動き出す。大きく開かれた門をくぐり抜けた瞬間、周囲の景色が歪み、踏破結晶が鎮座する広間へと到着する。


「四階層までひたすら走り抜ける。左近寺とむすび野郎は目に入った化け物を片っ端から始末。棒切れと俺は正面突破だ。朝比奈は付与術が切れないように注意しろ…いくぞ!」


 根川の明確な指揮のもと、陣形を乱さぬよう、我々は一気に駆け出す!


「疾け、風来の息吹」


 舞の詠唱が洞窟の壁に反響する。次の瞬間、足元に光の紋様が浮かび、一歩ごとに地面が押し出されるような浮遊感が生まれる。付与の加護で強化された疾走が、僕らの足を風のように加速させ――。


 空気の抵抗が消え、走るというより「滑る」感覚で脳内に叩き込んだ最短通路を駆け抜ける。


 天井から垂れ下がる石筍が、加速した視界の中で銀色の筋となって伸びる。足元の水たまりを蹴り上げた水滴が、まるで静止したように空中に浮かび、僕らが通り過ぎた後にようやく落ちる。


「敵っ、正面と二時方角。距離四十、接近中!」


「もす!」


 柚希の声が飛ぶ。その声とほぼ同時に、空気を切り裂く鋭い音が響く。蒼い尾を引いて飛び出した矢が、まだ姿すら捉えられていない小鬼の喉元を、寸分の狂いもなく貫いた。


 彼女の報告と同時に加護を発動した清龍が風の唸りと共に走り抜け、その双剣は舞うように翻り、魔物の懐へと滑り込んでは、深く沈み込む一撃で切り裂いていく。


「純之介っ頭上注意!コウモリ型来るよ!」


 全てを見通す警告の声で僕は六尺棒を振り上げる。加速した腕の動きに武器が追いつかず、一瞬遅れて衝撃が伝わる。まるで鈍重な波を切り裂く感覚、だが、その一撃で甲殻をまとったコウモリ型化け物の頭部を粉砕した。


「おらおら!道塞いでんじゃねぇよ、ザコどもが!」


 軽口を叩く根川の一閃は弧を描き、斬撃は空気を裂く。肉眼では捉えれない高速の居合が、現れた魔物を鮮やかに一刀両断する。


「付与は継続中!次の曲がり角を右よ!」


「「「了解!」」」


 舞の指示が背中を押す。幾体目の魔物を倒した頃だろうか、僕たちは既に第二階層の入口に到達していた。


「初挑戦の時は五時間掛けて到達したのに…今や五分も掛かってない」


 どこか感慨を含んだ声が背後から聞こえる。その言葉に深く共感し、僕は小さく顎を引いた。


 二階層に入ると同時に、一階層とは異なる空気の質が鼻を抜ける。荒々しい岩肌が剥き出しになっている。全員無言のまま走り続けた。


「来るわ!正面、四体!」


 柚希の鋭い警告が響くと同時に、矢が既に空気を裂いていた。連射された三本の矢は、斧と木盾を携えた小鬼たちの頭部を正確に貫き、間髪容れずにその場で痙攣を起こした。驚異的な命中精度。


「三体の沈黙確認!残り一体!」


「任せろ!」


 ――稲桜!


 一歩踏み込んだ根川の刀が水平に閃く。最後の一体は断末魔すら許されず地に伏した。


「ふぅ、一時間全速力で三層の安全地帯に到達か。もっと無駄を無くせば、あと十五分は縮められるな」


 無数の戦闘を潜り抜け、三階層の最奥、次の階層へ進む前の安全地帯に到着した僕たちは一旦足を止め小休憩を取ることとなった。空間は天井が高く、風が通る構造になっている。


「んっ……うぅ……」


 槍を背に納めた舞が、ほっと一息ついて背伸びをすると、小さな息遣いが洞窟の湿った空気に溶けていく。


 巫女装束の袖が少しだけずれ、隙間から白桃色の肩がのぞく。戦闘用に短く切った裾は、伸び上がる動作に合わせてふわりと揺れ、鍛錬で引き締まった太腿のシルエットが一瞬、強調される。訓練と実戦の積み重ねが形づくった、機能美の象徴。


 思わず、男性陣の視線が自然と彼女に集まるが、即座に逸らした。


「……舞ってば、無自覚に一番天然なとこあるよな。そういうとこが逆にズルいっていうか」


「ええ~?どういうこと?」


 少し離れた場所で道具袋から、折り畳み式の布座と温度調整済みの保存食を取り出した柚希が、唇を尖らせて声を上げる。


「っふん、嫉妬か」


 水筒を傾けながら根川がからかうと、柚希はぷくっと頬を膨らませて矢筒を背中に背負い直した。


「違うっつーの!何バカなこと言ってんの⁉ぶっ飛ばされたいの!?」


「おいおい、急に大声出すなよ」


 根川が低く制する声と同時に、安全地帯の一角から鋭い視線がこちらを刺す。数人の登塔者団体が警戒しながら手に武器を握り締めている。


「……すみません」


 視線に気付いた柚希が小さく頭を下げ、急に大人しくなる。彼女の耳が赤くなっているのが分かった。


「もすもす」


 清龍が呆れたように首を振り、腰の双剣のバランスを確認する。その動作に連動して、蒼銀の鎧が微かに煌めく。


「全員、異常なし?」


 話題を変えたかった僕が確認を取ると、それぞれが頷いた。


 ――無言の時間がしばし流れる。だけど、それは心苦しい嫌な沈黙ではない。次に備えた未知数の戦いに対する準備の時間。


「行こう、四階層が僕たちを待っている」


 一歩、また一歩と、誰からともなく立ち上がる仲間たち。装備を確かめ、視線を前へ向けるその背中に、迷いの影はなかった。


 未知の階層――新たな戦場へ、僕たちの影が静かに深淵へと滑り込んでいった。

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