第十一話 卒業試験前日
夕食で空っぽの胃袋を満たした後、汗と埃にまみれた体を洗うため大浴場へ向かった。湯気が窓ガラス一面を覆う浴室で、熱い湯に浸かる前に、シャワーで訓練で酷使した筋肉を流す瞬間の清涼感は格別だ。
髪と体についた土埃を洗い流し、湯船に浸かると、蓄積した疲労がじわりと染み出てくる。体のこりがほぐれ、揉み解されるように背中の筋肉が緩む。いつもより肩の力が抜け、のびのびと広がった感覚が心地よい。
視線を落とせば、訓練で負った傷が日に日に増えている。手首の浅い擦り傷から、青紫色に変色した打撲まで。一つ一つが刺すような痛みを伴うが、むしろ誇らしくさえ感じる。僕がどれだけ成長して、どれだけの壁を乗り越えてきたかを物語る勲章だから。
湯から上がり、再びシャワーを浴びる。冷水が熱くなった体を冷まし、清涼感が全身を包み込む。鏡に映った湯上りの顔を見つめながら、日課の化粧水を頬にのばす。
更衣室で体を拭き、清潔な服に着替えて寮屋へ向かう。
「お疲れや純君。今風呂から上がったんかい?」
「うん。歯も磨いたから、あと1時間ほど授業の復習をして早めに寝るよ。明日は大事な日だし」
「ほほぉ偉いの~」
部屋の扉を開いて中へ入ると、床に座って友人と将棋を指している西光寺友彦君に声をかけられた
「どう、純君も将棋やらんね?ちょうどよかとこで終わったばっかいだし、次ん一局やろうさ!」
友彦君は将棋盤をちらりと見て、にやりと笑う。人懐っこい彼はいつもこんな調子だ。勝負事となると瞳を輝かせ、戦隊ベルトをねだる子供のように無邪気になる。
「あはは、また今度ね」
苦笑いしながら優しく断り、自分の机に向かう。図書室で借りた本とノートを広げ、今日習った範囲を復習し始める。
「まあまあ、そがん堅うならんでさ。たまには息抜きも必要でっせ?」
友彦君は将棋の駒を片手に、僕の方を向いて言った。彼の声にはいつもどこか余裕があり、それがまた庇護欲をくすぐる彼の魅力かもしれない。
「(でも…確かに、最近は少し頑張りすぎているかも?)」
塔で生き残るために、訓練も勉強も完璧にこなそうと必死になっている。間違ってはいない。ただ…たまには肩の力を抜いてもいいのかもしれない。休息が鍛錬の近道だと聞くし。
「わかったよ。ちょっとだけ、付き合うか」
書物を閉じて友彦君の方に向かい合う。彼はその言葉に満面の笑みを浮かべ、将棋駒を並べ直す。
「そう来のうっちゃ!じゃあ、先手は譲ってやるばい。さあ、かかってこい!」
急に二段階くらい弾んだ活気ある声に軽い微笑を右の頬だけに浮かべる僕は、将棋盤を挟んで床に座った。
「ねぇ友彦君。僕さ…臭う?」
「ぉん?どった急に」
将棋の駒を動かしながら、ふと気になっていたことを口にした。教官たちの視線がやけに自分に注がれているような気がしてならなかった。一度や二度なら気のせいで済むが、明らかに意識的で、執拗なまでに観察されている。特に鳥山教官に至っては遠目でもわかるくらいジッと観察してくる。
先日、猪飼教官が担当する武術の授業で、いきなり身長二メートル近い筋骨隆々の猪飼教官が近づき、鼻息を荒げて思いっ切り僕の頭皮を――。
「嗅いだと?」
友彦君が将棋の駒を指しながら、理解不能な表情で僕を見つめた。
「うん。授業中に急に近づいてきて、僕の頭の辺りを嗅いでたんだ。何故か首を傾げながら何度も。それから注意深く観察すれば、他の教官たちも微妙な距離感から鼻の先だけ動かして、匂いを嗅ぐ動作をしてるんだ。…何か変なのか?」
僕は将棋盤に目を落としたまま、その時の事を思い出しながら告げた。何時もは大声で叫ぶ猪飼教官が無音で匂いを嗅がれた瞬間は、困惑より恐怖が勝った。実に恐ろしい。
「よし!おいに任せれ!」
友彦君が何か閃いたように立ち上がると、僕の袖や髪の匂いを嗅いでみる。
「う~ん。別に変な臭かはせんな。竹と湖んよか香りや!」
念のため確かめてみた友彦君も首を傾げて不思議そうな表情をする。匂い…特に変わった香水を使った覚えはない。そもそも塔で支障をきたすから香水など避けるのが原則だ。
しかし、体臭は自分では中々分からないものでもある。教官たちは僕を臭いと言ってはいないのだから、ただ単に僕が過敏になり過ぎているだけかもしれない。
「憶測だばってん、教官方は純君の成長ん匂いば嗅いどーとじゃなかと?」
「成長の匂い…?」
僕は眉をひそめながら、友彦君の言葉を反芻する。
「そう。教官たちは、生徒ん中でん特に潜在能力ん高かやつば見抜くとが上手かばい。純君は最近、訓練でん勉強でん目覚ましか進歩しとろうが?あん人たちはそれに気づいとーとばい。だけん、純君ばじっと観察しとーとたい。まるで『こん子はもっと伸びっぞ』って感じでね」
他の訓練生から成長していると言われて、嬉しい自分がいる。
「へぇ~。でも、なんで匂いを嗅ぐんだろう?…」
「そこなんばいね~。恐らく匂いで他人の『気』ば感じっ、塔ん加護ば所持しとーんじゃなかかな?」
『塔の加護』…か。僕はどんな加護を貰えるのだろうか?先ず明日の卒業試験に合格しなくちゃ始まらない。
「……っあ、王手」
駒を動かし、気付けば勝負がついていた。
「おっと、やられたか!まあ、今日は純君ん勝ちばい」
友彦君は悔しそうに笑いながら、駒を片付け始めた。僕は将棋盤を見つめながら、ふと心が軽くなった気がした。過酷な訓練に勉強、細かなところまで虫眼鏡で観察するように見つめる教官たちの視線。色んな苦悩が積み重なって、息が詰まりそうになっていた。
こればっかりは親友のような身近さで相手の懐にうまく入り込む彼に感謝しよう。
「じゃあ、もう寝るよ。おやすみ、友彦君」
「おう、おやすみ。また明日な、純君」
僕は寝床に横たわり、ゆっくりと目を閉じた。明日は未来を切り拓く人生重大な日。これまで鍛錬してきた全てをぶつける!
心の中でそう誓いながら静かに眠りについた。
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