第六話 走るか、鞭か

 適性数値検査で合格基準点を満たして早一年、記念すべき序盤の訓練開始を告げる甲高い笛の音が鳴らされた。


 「限界が来るまで走れ」という教官の指示に、訓練生たちは皆、少し戸惑っていた。柔軟体操が終わり、準備が整ったところで教官の吹く哨子の音が響いた。


 大人しく一列に並んでいたのはつかの間。教官の合図と同時に、先頭の者は躊躇いなく飛び出す。全員が一斉に動くわけではない、少し時間を置いてから走り始める者、寮で知り合ったばかりの友人と談笑しながら、小股で走る者。整然とした列はたちまち崩れ、それぞれの歩調で走り始めた。


 足に自信がある者が勢いよく前を突っ切る背中を眺める僕は、出発前に深い呼吸を丹田のあたりに溜めて、全身を落ち着かせてから走り出した。

 現状、僕が一番後ろを走り、何故か待っていた朝比奈さんが目の前を走っている。風になびく黒檀の光ある髪の香りがそっと僕の鼻を打つ、茉莉花と白檀の香り。


 背筋を伸ばし、体の軸はまっすぐ、重心がぶれない綺麗な姿勢。普段から走っている動作だ。




 持久走はいつまで続くのか、その終わりは見えない。三周を回り、四周目に入った頃、集団には明確な差が生まれ始めていた。先頭集団は速度を上げ、確実に後方との距離を切り裂いていく。

 そんな中、僕と朝比奈さんは、互いに無言の了解で体力を温存し、様子を見るペースを守っていた。

 現時点で、音を上げる者はまだいない。一周約四百メートル。コースは適度な粘りと弾力を持った粘土質の土で覆われ、足に優しい反発を返してくれる。それでも、走った距離はまだ一・五キロにも満たない。


 開始から五分少々、むくむくとした金太郎のような体つきの訓練生が一人息を切らしている以外は、特に目立った問題もなく訓練は進んでいく。


「(…相変わらず、バインダーから目を離さない)」


 ちらりと桜木教官を眺める。彼女は開始時から、訓練生たちにはほとんど関心を向けず、手元の記録用バインダーとひたすらに睨めっこを続けている。あたかも走る訓練生より、紙面に記された名簿の方がよほど重要であるかのように。


「新田君も気になるの?」


 いつの間にか隣を並走していた朝比奈さんが声をかけてきた。自然と彼女の方へ目線を傾ける。余裕な表情で前を向いて走る姿が凛々しく、揺れ動く髪の隙間から覗ける横顔に視線が釘付けになる。僕の様子を察した彼女が、ほんのり得意げな微笑みを浮かべた。…なんて美しいんだ。


「うん、たぶん僕たちの評価を記録してるんだと思う。でも、それにしても一切こっちを見ないってのは…やっぱり気になる」


 率直な気持ちをさらけ出した僕の言葉に朝比奈さんは小さくうなずき、共感を示してくれた。


「そうね。でも、気にしたところで仕方ない。終了の笛が鳴るまでは、走ることに集中しましょう」


 彼女が軽く顎を引いて言い放つ姿は凛々しく、そして潔い。その言葉に背中を押されるように、僕は自然と歩幅を伸ばした。


 五周目を通過。二人のペースに変化はない。隣を走る朝比奈さんも依然として無言で、僕たちの間に流れるのは、呼吸と足音だけの奇妙な同調。そして、スタミナを計算外に投じた代償か、先頭を走っていた数名の速度が、明らかに落ち始めた。


 八、九、十周目を突破、変わらず教官に変化はなし。暑さで滲み出た汗が服を濡らす。息切れこそしていないものの、体力の消耗が激しい。訓練生たちの中に疲労の色が見え始める。呼吸が荒くなり、足取りが重くなってきた者も多い。


 十二周目。その時、大柄な訓練生が、もはや走るというよりは重い身体を引きずるようにして進んでいた。序盤から息を切らしていた、あの金太郎だ。彼はついに体力の限界を迎え「ぐあっ!」 という唸りとともに膝を突き、その場に止まった。頭からは湯気が立ち上り、全身を汗が滴り落ちる。今にも崩れ落ちそうなその姿だ。


「ぎ、教官殿ーっ!某、も、もう走れん御座る~!限界は超越いたしましたぞ~!きゅ、休憩をもらってもいいですか⁉」


 彼の振り絞るような絶叫に、桜木教官はようやく顔を上げた。一度、冷静に腕時計で時刻を確認すると、彼女は淡々と、しかし鋭い視線をその訓練生へと向けた。

 一度、冷静に腕時計で時刻を確認した彼女は淡々と、しかし鋭い視線をその訓練生へと向けた。


「塔の中では、挑戦者に容赦ない魔物相手に同じ戯言をほざくの?知性を持たない人命を喰らう怪物に、『疲れた』から助けを乞うの?…その甘い根性を叩き直してあげる。さあ立ちなさい!」


 そう言った教官は懐から水色に輝く鞭を取り出して弱音をこぼした金太郎(本名不明)へ向けて何のためらいもなくそれを振るう。


 両者の距離は目測で約三十メートル離れており、通常の鞭では決して届かない距離だが、桜木教官の表情には微塵の動揺も見られなかった。

 鞭は意思を持つ生き物のように空気を切り裂き、信じられないほどに伸びて、やがて離れた彼の腰付近に命中した。乾いた炸音とともに、悲鳴が広場を覆う。


 加減を知らぬ一振りを受けた金太郎君(仮名)は激痛のあまり絶叫し、地面を転げまわる。その惨状に、他の訓練生たちも戦慄し、思わず後ずさる。集団の中から、慄きの息遣いが漏れた。


 桜木教官の操る鞭が弧を描く。青く光る鞭身は生き物のように金太郎の体を絡め取り、その巨体を無理やり引き起こした。そして再び鞭を振るう、空中で唸り今度は金太郎の尻へ直撃し、「ブヒィ⁉」という奇妙な悲鳴を引き出した。


「鳴けるだけの体力は残っているようね。次の一撃が嫌なら、さっさと走りなさい。ほら!」


「ヒイィぃ。た、只今ー‼」


 弩の音を聞いた猪のように身を起こした彼は打たれた箇所の痛みに涙を流しながら再度走り始めた。

 訓練生たちは教官の手にある鞭に怯え、その矛先が自分に向かうのではないかと戦慄いている。僕も例外じゃなかった。

 

 隣で並走する朝比奈さんも、硬い表情を浮かべている。

 

 そんな僕たちの様子を一瞥した教官は、冷たい声を響かせた。


「ご覧の通り、この鞭は塔で入手した特別製よ。能力は目視できる範囲内なら無限に伸びるという優れもの」


 彼女の手の中で、鞭は生き物のように自在に伸縮し、言葉の真実を証明してみせる。やがて鞭を元の長さに戻すと、教官は続けた。


「ご存知の通り、塔で手に入れた武器や便利道具、触媒素材は塔の中のみ効果を発揮するわ。でも、隣接した訓練場も塔の範囲内とみなされ使用可能なの。…あら?みんな、足が止まっているわね。次の的は誰がいいかしら」


 鞭の先をそっと揺らしながら、教官がゆっくりと視線を走らせる。その目線に触れた訓練生たちは、まるで火をつけられたように走り出す。

 さっきまでノロノロと疲れ切っていた者も、恐怖で蓄積した疲労など押し殺して必死に足を動かす。僕も朝比奈さんも、その集団の流れに呑まれるように走り出した。




「ぜぇ…ぜぇ……ぜぇ……」


 息を切らしながらも、僕たちは必死に走り続けた。桜木教官の鞭の威圧感が、全員の背中を押しているようだった。傍で頑張る朝比奈さんの姿が、僕にとって大きな励みとなっていた。


 二十周目、訓練生たちの中には既に限界を迎えた者も出てきた。コースを離れ、膝に手をついて息を整える者たちが増えている。その中、僕はまだ走り続けていた。流るる汗は止めどもなく、呼吸は火焔のように胸が苦しい。


「(あと少し…もう少しだけッ!)」


 心の中でそう呟きながら地面を踏み締める。――二十五周目に差し掛かった時、遂に体力の限界を感じた。重りを付けられたかのような脚の感覚が突然消え、地面を滑って転倒する。慌てて受け身を取るが、全身を強く打ち付けた衝撃と痛みに一瞬意識を持って行かれそうになる。


 全身に襲い掛かる疲労感を堪えながら上半身を起こし、立ち上がろうとした瞬間――教官の声が降りかかる。


「終了です!初日に関わらず皆頑張ってくれました。しかし、現段階ではまだまだ未熟なので明日はもっと厳しく訓練を行います。しっかりと体を休め、万全の状態で臨むようにしてください。以上!」


 訓練生たちは一斉に地面に横たわる。もはや動く気力すら残されていないようだ。


「頑張ったね新田君。かっこよかった」


 朝比奈さんが近寄ってきた。彼女も相当疲れているはずなのに、その優しい言葉が僕の心に染みる。


「ありがとう。朝比奈さんのおかげでここまで頑張れたよ」


 お互いに励まし合いながら、僕たちはその場に座り込んで体を休めた。

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