煉獄の蠱王 ~五百年の時を超え、俺は再び頂点を目指す~

灰二

第1話:身は滅びども、魔心は悔いず


「方源(ほうげん)、大人しく春秋(しゅんじゅう)の蝉(せみ)を渡せ。さすれば苦しまずに殺してやろう!」

「老魔・方源!もはや無駄な抵抗はよせ。今日この日、我ら正道の名だたる門派が連合し、貴様の魔窟を砕く!既に天羅地網は張られたのだ。今回ばかりは、貴様に逃げ場などない!」

「この人でなしが!春秋の蝉を練成するため、千万もの命を奪ったな。その罪、万死に値する!」

「魔王め!三百年前、貴様は私を辱め、純潔を奪い、一族郎党を皆殺しにした!あの日から、私は貴様の肉を喰らい、血を啜ることだけを考えて生きてきた!今日こそ、死ぬ以上の苦しみを味あわせてやる!!」

方源は、ボロボロになった碧(みどり)の長袍(ちょうほう)を身にまとい、乱れた髪のまま、全身の血を浴びて四方を見渡した。

山風が血に濡れた袍を吹き上げ、まるで軍旗のようにはためき、不気味な音を立てる。

真紅の血が、数百に及ぶ傷口から絶え間なく溢れ出ていた。ただ束の間そこに立つだけで、方源の足元には血だまりが広がっていく。

敵は四方を囲み、もはや活路はない。

大勢は決した。今日、ここで死ぬことは疑いようもなかった。

方源は己の状況を火を見るより明らかだったが、死が目前に迫ってもなお、その表情は変わらず、あまりにも平然としていた。

その眼差しは古井戸の淵(ふち)のように静まり返り、どこまでも底が見えない。

彼を包囲する正道の猛者たちは、名門の長老か、あるいは世に名を轟かす若き英傑か。彼らは方源を固く包囲し、ある者は咆哮し、ある者は冷笑し、ある者は油断なく目を細め、またある者は自らの傷口を押さえながら恐怖の眼差しを向けていた。

だが、誰も手を出さない。皆が方源の、死に際の反撃を恐れているのだ。

その緊迫した対峙は三刻(さんとき)(※約六時間)にも及び、やがて陽は西に傾き、落日の最後の輝きが空を燃えるような深紅に染め上げた。

それまで彫像のように静かだった方源が、ゆっくりと振り返る。

途端に群雄は動揺し、揃って一歩大きく後退した。

方源の足元にある灰色の岩肌は、とうに血で暗赤色に染まっている。大量の失血で蒼白になった彼の顔が夕日に照らされ、ふいに妖しいまでの輝きを放った。

青山と落日を眺め、方源は静かに笑った。「青山に陽は落ち、秋の月、春の風か。朝(あした)の黒髪、夕(ゆうべ)には雪となり、是非も成敗も、振り返れば皆空しい」

その言葉を口にした時、彼の脳裏に前世――地球での日々が鮮やかに蘇った。

彼は元々、地球の中国からの学生だった。数奇な運命でこの世界に転移し、三百年の流転、二百年の縦横を経て、五百年という悠久の時は、瞬く間に過ぎ去った。

心の奥底に埋もれていた多くの記憶が、今この瞬間に息を吹き返し、ありありと眼前に広がる。

「結局、失敗か」方源は心の中で嘆息した。感慨はある。だが、後悔はなかった。

この結末は、とうに予見していた。その道を選んだ時から、覚悟はできていたのだ。

魔道とは、善果を修めず、人を殺し火を放つ道。天地に容れられず、世界中が敵となる。それでもなお、思うがままに生きるのだ。

「練成したばかりの春秋の蝉がもし有効ならば――来世でも、また魔道を往く!」

そう思うと、方源は抑えきれずに高笑いした。

「老魔、何を笑っている!」

「皆、気をつけろ!奴は死に際に反撃する気だ!」

「早く春秋の蝉を渡せ!!」

群雄が詰め寄る、まさにその時。轟音と共に、方源は己の身を悍然(かんぜん)と爆ぜさせた。

春雨がしとしとと降り、音もなく青茅山(せいぼうざん)を濡らしていた。

夜は既に深く、涼やかな風が霧雨を運ぶ。

だが、青茅山は闇に包まれてはいない。山の中腹から麓にかけて、無数の淡い光が瞬き、まるで壮麗な光の帯をまとっているかのようだ。

光の源は、高床式の家々。万の灯火とはいかぬが、数千の規模はあろう。

これこそが青茅山に居を構える、古月一族の里。広大で静寂な山々に、濃厚な人の営みの気配を添えていた。

里の中央には、ひときわ大きく壮麗な楼閣がそびえ立つ。今宵、ここでは祭祀の儀が執り行われており、普段にも増して煌々と明かりが灯され、絢爛たる輝きを放っていた。

「ご先祖様、どうか我らをお守りください。この度の開竅(かいきょう)の儀にて、一人でも多くの才ある若者が現れ、一族に新たな血と希望をもたらしてくれますように!」

古月一族の族長は壮年の男で、こめかみには白いものが混じり、純白の荘厳な祭祀服を身にまとっていた。彼は茶褐色の床に膝をつき、背筋を伸ばし、固く合わせた両手を胸の前で組み、目を閉じて一心に祈りを捧げている。

彼の視線の先には、高く黒漆で塗られた祭壇があり、三段に分かれた棚には先祖の位牌が祀られている。位牌の両脇には赤銅の香炉が置かれ、立ち上る煙が厳かな香りを漂わせていた。

彼の背後にも、十数人の者たちが同様に跪いている。彼らもまた白い祭祀服をまとい、一族の各権力を担う家老(かろう)たちであった。

祈りを終えると、族長がまず深々と頭を下げ、両の掌を床にぴったりとつけて額ずいた。額が床に打ち付けられ、コツ、と軽い音が響く。

背後の家老たちも粛然とした表情で、それに倣った。

しばし、一族の祠堂には額が床を打つ音だけが静かに響き渡った。

儀式が終わり、人々はゆっくりと立ち上がり、静かに荘厳な祠堂を後にする。

廊下に出ると、家老たちは皆ほっと息をつき、張り詰めていた空気が少し和らいだ。

やがて、ささやき声が聞こえ始める。

「月日が経つのは実に早いものだな。瞬く間に、また一年が過ぎ去った」

「前回の開竅の儀は、まるで昨日のことのようだ。今でも鮮明に思い出せる」

「明日はいよいよ年に一度の開竅の儀か。今年はどのような新しい血が現れるかのう?」

「はあ……甲等(こうとう)の才を持つ若者が現れてほしいものだ。我ら古月一族から、あのような天才が現れなくなって、もう三年になる」

「うむ。白家(はっけ)や熊家(ゆうけ)の里では近年、天才が輩出しておる。特に白家の白凝氷(はくぎょうひょう)……あやつの天賦の才は、まさに恐るべきものだ」

誰かがその名を口にした途端、家老たちの顔に憂いの色が浮かんだ。

白凝氷の才は傑出しており、わずか二年で既に三転(さんてん)の蠱術師(こじゅつし)にまで至っている。若手の中では、他の追随を許さぬ存在だ。老練な世代でさえ、その後進の才にプレッシャーを感じていた。

時を与えれば、彼が白家の屋台骨となることは間違いない。少なくとも、一方を担う強者となるだろう。それを疑う者はいなかった。

「だが、今年の開竅の儀に参加する若者の中にも、希望はいる」

「いかにも。方(ほう)の一派から天才少年が現れた。三月(みつき)にして言葉を解し、四月(よつき)にして歩み、五歳で詩を詠む。その才気、まさに異常と言うべき。惜しむらくは両親を早くに亡くし、今は叔父夫婦に育てられていることか」

「うむ、早熟の天才よ。志も高いと聞く。近年、彼が詠んだという詩の数々は、長老たちの間でも語り草だ。まさしく天才よ!」

最後に祠堂を出た族長がゆっくりと扉を閉めると、廊下から聞こえてくる家老たちの議論が耳に入った。

彼らが話しているのが、古月方源(こげつほうげん)という名の少年であることはすぐに分かった。

一族の長として、優秀な若者に注目するのは当然だ。そして古月方源は、若輩の中では最も抜きん出た輝きを放つ一人だった。

経験上、幼き頃より異才を発揮する者は、優れた修行の才を持つことが多い。

「もし彼が甲等の才を示せば、手厚く育てることで白凝氷にも対抗しうるだろう。たとえ乙等(おつとう)の才であったとしても、将来は古月一族の旗印となる逸材だ。いや、あれほどの早熟ぶりだ。乙等のはずがない、甲等の可能性が極めて高い」

そう考えると、族長の口元が自然と綻んだ。

彼は咳払いを一つすると、家老たちに向かって言った。「皆の者、もう夜も更けた。明日の開竅の儀のため、今宵はゆっくりと休み、英気を養うように」

その言葉に、家老たちは微かに身を固くした。互いに交わす視線には、警戒の色が隠されている。

族長の言葉は穏やかだが、その真意を理解できぬ者はいなかった。

毎年、この天才の卵たちを自らの一派に引き入れるため、家老たちは血で血を洗う争いを繰り広げるのだ。

明日の争奪戦に備え、鋭気を養っておかねばならない。

特にあの古月方源、甲等の才を持つ可能性が非常に高い。しかも両親を亡くし、方の一派に残された数少ない孤児の一人だ。もし自分の一派に引き入れ育て上げれば、今後百年の安泰は約束されたも同然!

「だが、醜い話は先にしておく。争うのであれば、正々堂々と争うこと。陰謀を巡らせ、一族の団結を損なうような真似は許さん。皆、肝に銘じておくように!」族長は厳粛な口調で釘を刺した。

「滅相もございません」

「肝に銘じます」

「では、これにて。族長様、お引き留めいたしまして」

家老たちはそれぞれの思惑を胸に、一人、また一人と去って行った。

やがて、長い廊下は静寂に包まれた。春の夜風が、開いた窓から雨と共に吹き込んでくる。族長は静かに窓辺へ歩み寄った。

途端に、湿り気を含んだ山の清浄な空気が肺を満たし、心が洗われるようだ。

ここは楼閣の三階。族長が目を向ければ、古月一族の里のほとんどが一望できた。

深夜にもかかわらず、里の家々の多くに灯りがともっている。

明日は開竅の儀。それは里の者一人一人の人生を左右する。興奮と緊張が入り混じった空気が人々を包み、多くの者が寝つけずにいるのだろう。

「これこそが、一族の未来の希望……」

窓に映る無数の灯火を見つめ、族長は長く息を吐いた。

その同じ時、もう一対の澄んだ瞳が、静かに夜の灯火を見つめ、複雑な感慨に満たされていた。

「古月一族の里……ここは、五百年前だと!?……春秋の蝉は、本当に効いたのか……」

方源は幽玄な眼差しで窓の外を見つめ、雨風がその身を打つのも構わずに佇んでいた。

春秋の蝉の効能は、時を逆行させること。十大奇蠱(きこ)の第七位に列せられるだけあり、その力は尋常ではない。

簡潔に言えば、それは――「再生」だ。

「春秋の蝉を使い、再生した。五百年前の世界に!」

方源は自らの手を伸ばし、若く、少し蒼白で、まだか弱いその掌をじっと見つめ、そしてゆっくりと握りしめた。その確かな感触を確かめるかのように。

雨が窓を打つ微かな音が耳朶(じだ)を撫でる。彼は静かに目を閉じ、しばしの後に再び開くと、深く息を吐いた。

「五百年の経験……真に、夢のようであったな」

だが彼は知っていた。これが、決して夢ではないことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る