第26話 侵食

夜の東京は、いつもと変わらない表情を見せていた。

街灯の白い光が歩道を照らし、仕事帰りの人々が足早に駅へと向かう。スーツ姿のサラリーマン、コンビニ袋を下げた若者、イヤホンをつけた学生。誰もが明日も続く日常を信じて歩いている。


会社のビルを出て、雑踏の中に紛れ込んだ。

だが、佐々木課長の言葉が頭から離れない。

「山が呼んでいる」

「感染する」

「深入りするな」

コートのポケットに手を突っ込み、無意識に肩をすくめた。秋の夜風は次第に冷たくなってきた。それとも、別の理由で背筋が冷えているのか。


取材を重ねるうちに見えてきた構造。

池森の転落死体を目撃した佐伯。佐伯の祈りを見た同僚たち。そして山里から都市部へ。"何か"が人から人へ伝播している。


歩きながら、頭の中でこの現象を整理しようとした。

そうだ、名前をつけよう。名前のないものは把握できない。理解できないからな。


「うーん…やはり“しらの様”としておくか」


佐伯の最後のメモ、山の集落の人々が口にしたあの名前。やはりこれが一番しっくり来る。

山の神様か、それとも山そのものなのか、明確なことは分からないが名付けることで、対象化できる。分析できる。


そう思った瞬間、自分の思考に違和感を覚えた。

なぜ、名前をつけようと思ったのか。


駅のホームは混雑していた。電車に乗り込み、つり革を掴んだ。

揺れる車内で、スマートフォンを取り出す代わりに、ポケットからメモ帳を取り出した。ペンを走らせる。


接点=目撃か、動作の模倣か、それとも"聞く"だけ、見るだけ、それとも…例えば文字だけでも伝わるのか?


田所→佐伯の祈りを見た→模倣の兆候

山本→佐伯の祈りを見た→もう意識せずに手が動こうとする

佐々木課長→見ないように努めている→それでも夢に出る


結論:視覚的接触が最も強い感染経路。しかし聴覚情報(話を聞く)でも弱い感染が起こる可能性あり。


ペンを止め、ふと自分の両手を見る。

メモ帳を持つ左手。ペンを持つ右手。

その手が、無意識に動きそうになった気がした。合わせようとするような。


違う。気のせいだ。頭を振った。一つ深呼吸。


「俺はまだ大丈夫だ。祈りの動作は直接見ていないし、佐伯の写真も見ていない。大丈夫だ。」

そう自分に言い聞かせる。だが、心の奥底に小さな不安が根を張り始めている。

自分も感染しているのではないか。


乗り換え駅に着き、ホームに降り立った。

金曜日の夜。酔客や若者で溢れている。

反対側のホームで大学生らしいグループが笑っている。四人組。男三人、女一人。楽しげな声。

「マジでー!」

「やばくねそれ」

「次どこ行く?」

無害な日常の風景。


構内放送が流れる。

『間もなく、3番ホームに電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください』


その時だった。

グループの一人、短髪の男子学生が、ふいに動きを止めた。彼は線路の向こうを見ている。いや、電車を見ているというより…何かもっと遠くを見ているような。

「おい、タクヤ?」

友人が声をかける。だが、タクヤと呼ばれた学生は反応しない。


そして彼は、ゆっくりと両手を胸の前で合わせた。

深く、頭を下げる。一回。二回。三回。

「何やってんだよw」

友人たちが笑う。最初は冗談だと思っている。

タクヤは手の甲を叩いた。音が響く。一回。二回。

そしてもう一度、深く頭を下げた。

その瞬間、タクヤの表情が変わった。

穏やかな、幸福そうな笑みを浮かべて。


「え、ちょっと待て、タクヤ?」

友人が異変に気づいた。だが遅かった。

タクヤは黄色い線を越えた。

「おい!」

そのまま、線路に飛び込んだ。


轟音。

電車の急ブレーキ音が駅全体に響き渡る。

悲鳴。

「誰か!」

「人が!」

「止めろ!」

ホームが一瞬で地獄に変わった。


群衆がざわめく。逃げる人、駆け寄る人、その場に立ち尽くす人。

駅員が走ってくる。警笛。無線の声。


見た、若者はあの動作をした、三礼二裏拍一礼を。

そして、その直後の飛び込みを。

頭の中で、冷たい理解が広がっていく。

「もう…街に広がっているのか」

奥桜谷の山から始まった何かが。


池森の転落死は始まりにすぎない。都市部に入り込んだ"しらの様"は拡散し、そして今、この渋谷のホームで、見ず知らずの大学生が犠牲になった。


「これはもう個人の問題ではないな…」

ふと視界の端に映る光景が意識を引き戻す。

救急車のサイレン。集まる野次馬。スマートフォンを向ける人々。

そして、その群衆の中に。

一人。現場ではない方向を見ている人がいる。おそらく北の方角。

ホームの向こう、ビルの向こう。遠くの山を見るように。


メモに追記

渋谷駅での目撃。

飛び込み前に三礼裏二拍一礼。


周囲にも模倣行動の兆候。

デスクに確認事項:

・桜谷での過去の記録

・地元での対処法の有無

・感染の防ぎ方

・いや、知っている全てを語ってもらう


※自分の手が震えている。

 疲れているだけだ。

 そうだ、疲れているだけ。

 手を合わせたくなるのは気のせいだ。

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