第8話 葬
通夜の夜は雨が降っていた。
斎場の前には線香の煙が漂い、黒い服を着た人々が静かに列をなしていた。
雨露と夜風は冷たく、街の喧騒から切り離されたような時間がそこにあった。
受付で香典を渡し、名前を記帳する。真一の筆跡は、ほんの少し震えていた。
祭壇には白菊が並び、白木の棺の上には佐伯の遺影が掲げられている。豪快に笑うあの表情が、今は額縁に閉じ込められている。
僧侶の読経が低く響く。蝋燭の炎が風もないのに揺らめき、会場全体に張りつめた緊張を映し出していた。
参列者の中には僅かながらに大学時代の知り合いも数人いて、互いに軽く会釈をする。けれど、言葉は交わさない。喪服に身を包んだ場の重さが、冗談や世間話を許さなかった。
焼香の順番が巡ってくる。
線香を手にした瞬間、真一の脳裏には居酒屋で肩を組み、馬鹿話を繰り返していた佐伯の姿がよぎる。
なぜ、あんなやつが。その思いを煙とともに吐き出すように、静かに香炉に手を合わせた。
真一の胸に渦巻いたのは「納得のいかない違和感」だった。
──佐伯は、そんなことをするやつじゃない。
葬式で顔を合わせる親や友人に、きっと皆が同じことを言うだろう。
焼香を済ませ、ひと段落した頃に健司が小さく真一の腕を突いた。
「……ちょっと外、行かないか」
二人で斎場の表に出ると、斎場入り口からやや右に外れた場所に自販機が青白い光を放っていた。その隣には「喫煙所」と書かれた灰皿付きのポールが立っている。
健司はポケットからタバコを取り出し、火を点ける。
「こんな時に……って思うけどさ、吸わずにいられないんだよな。アイツは吸わなかったけど。」
そう言って深く吸い込むと、夜気に混じる煙がゆっくりと空に溶けていった。
自身もタバコを取り出し、無言で火を点ける。肺に煙を流し込むと、ようやく胸に溜まっていた重石が少しだけ軽くなった気がした。
ふと視線を上げると、喫煙所の先に斎場の大きなガラス窓があった。中の祭壇が白く浮かび上がって見える。
だが、遺影や花の手前に、黒っぽい靄のような影がゆらゆらと揺れているのが見えた。靄は棺の上に覆いかぶさるように広がり、揺れていた。
「……あれ、なんだ」
思わず口にすると、健司も窓を覗き込んだ。
「え?何もないぞ。……ああ、ガラスに俺らの煙が反射してんじゃないのか」
そう言われればそうかもしれない。だが、祭壇に向かって立ち昇るはずのない煙の流れ方だった。
真一は気づかれないように視線を逸らし、タバコを灰皿に押しつけた。
「……戻るか」
「おう」
斎場に戻ると、再び読経の声と蝋燭の揺らめきが彼らを迎えた。外で見たあの影はもうどこにもなかった。
翌日の葬儀。昨日までの雨は嘘のような秋晴れだった。
斎場の駐車場に車を止めた真一は、まだ胸の奥に重しを抱えたまま礼服の襟を正した。
黒い背広姿の人々が無言で建物へ吸い込まれていく。秋の乾いた風に、線香の匂いがふっと漂ってきた。
僧侶の読経が響き、列席者のすすり泣きが重なる。
棺のそばに座る両親は、顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。
母親の方は、泣きながらも「なんでなの、あの子はそんな子じゃなかったのに」と繰り返している。父親は言葉を発さず、ただ背を丸め、数珠を握りしめていた。
──そうだ。佐伯はそんなやつじゃなかったはずだ。
記者として冷静に書けば「自殺」になるのだろう。それでも、友人としての自分には「何かおかしい」という思いしか残らない。
式が終わり、会葬者が外へと流れていく。真一も出口へ向かおうとしたその時、背後から声がかかった。
「……三浦くん?」
「どうも…お久しぶりです…。」
振り向くと、佐伯の母親が立っていた。
佐伯の母親とは面識があった。大学時代に無理やり佐伯に実家に連れられて行った際に、お世話になっていたのだ。
とても疲れ切った顔で、それでも必死に言葉を探しているように見えた。
「ごめんなさいね、呼び止めてしまって…ちょっと聞きたいことがあって…。これ、あの子の机の上に置いてあったんです。意味が分からなくて……」
差し出された小さな封筒の中から、白いメモ用紙が一枚。
そこには、整った筆致でただ一行。
「志良野様」
それだけが、机に残されていたという。
「ちょっと前に電話したときは、普通だったんです。帰ってくるって……元気そうで。それなのに」
母親の声は震えていた。涙をこらえているのが分かる。
「……これ、何かわかりますか。あの子が言っていたの、三浦くん記者になったから調べ物はアイツにやらせるかって…。」
真一は一瞬、言葉に詰まった。意味不明の固有名が目に焼き付いて、ぞくりと背中を冷たいものが走る。
けれど表情には出さず、静かに頷いた。
「……分かりません。でも絶対調べてみます。」
母親は小さく頭を下げ、遺族席へ戻っていった。
残された真一の手には、一枚のメモ。
正体は分からない。けど、絶対に何かある。これは予感だ。
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