穢祈
SHIROKI
第0話 贄
──御身に捧げます。
深夜、狭いワンルームの窓ガラスに街灯の光が薄く滲んでいた。
パソコンの画面は一文だけを残して点滅している。キーボードから手を離し、椅子にもたれたまま長く息を吐いた。
部屋の中には挽きたてのコーヒーの香りと、タバコの紫煙が漂っている。
指先に力を込め、立ち上がった。パソコンに書こうにも、紙に書こうにも、どうにも言葉が追いつかない。だから外へ出ることにした。
書き上がらない遺言を抱えたまま、夜の街へ出る。歩道は冷たい空気に固まって、ネオンが舗道に薄い膜を引いている。遠くの自販機のライトが、彼の影を何度も分裂させた。
深夜の商店街はもう店じまいで、人影はほとんどなかった。自販機の横を通り過ぎ、橋の手前で立ち止まる。
明日は雪が降るらしい。
吐く息は白く、胸の奥が締め付けられるように痛み、彼はぽつりと呟いた。
「……御身に捧げます。」
誰もいない夜に向かって言ったことを自分でも少し恥ずかしく思いながら、会社に行くことにした。
忘れ物があると言えば警備員は呆れながらも入れてくれるのを知っているからだ。
だがその「忘れ物」は、別にある訳じゃない。ただの口実だ。
「すみません、どうしても忘れ物を取りに行きたくて…」
警備員は予想通りめんどくさそうな顔をするが仕方なくロックを解除してくれる。
フロアは薄い照明のまま、静まり返っている。
「なるべく早く済ませて下さいよ」とだけ言い、警備員は詰所に戻った。
そのままフロアを抜け、屋上へのドアの前へ歩いていった。ドアは普段、施錠されているはずだ。
屋上は管理が厳しく、勝手に上がる事はできない。
指先がドアの鉄の縁に触れた瞬間、カチャリと小さな音が鳴った。ドアの鍵は触れていない。
導かれているのだ。「御身に捧げなくては」頭の中で別の場所から聞こえる指令のようなものが繰り返される。
屋上へ出ると、冬の風が顔を平手で打った。
大きく一呼吸すると、フェンスまで歩み寄り足をかけよじ登り始める。爪先で鉄の網を掴み、肩で体を引き上げる。足元で小さな金属の音が重なる。
通りかかりの誰かが見ていたら、その行為を必死に止めたであろう。だが、どんな顔をしていたのか。決死の形相だった?笑っていた?泣いていた?
フェンスの反対側に立った時、息を整えた。
夜景が眼下に広がり、遠くには見慣れたビル群の灯り。
胸の前で手を組む。
三度頭を垂れた。
続けて両手を返して二度、掌の甲を打ち合わせる。
最後に一礼。
身体が自分の意志ではない方向へ動いている感触があった。
「御身に、捧げます。」
言葉は夜空に吸われ、しかし何かが確かにその言葉を受け取ったように思えた。
ふっと空に身を投げた。瞬間、遠くでビルの時計がひとつだけ時を刻む音がした。
残されたのは、風の音、夜に響くサイレン
そして──微かな笑い声
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