第2話
晴れなのか曇りなのか解らない空の下。私は、ひたすら圧倒されていた。伯爵邸とは、これほどまでに子爵邸と違うものなのか、と。
お母様に連れられ初めて伯爵邸を訪れた日。そう、マリエッテ様がわざわざお出迎え下さった日。
高く積まれた赤レンガが屋敷を囲み、入口には立派な門がどーんと鎮座して訪れた下級貴族を威圧する。
びくびくしながら門をくぐれば左右に美しく整えられた庭園がお出迎え。なんとか模様とかいう、計算された配置らしい。知らないけど。
庭園を通り過ぎると正面に小規模な噴水が見えて、これを迂回してやっとお屋敷の玄関だ。
お屋敷は左右に広い石造りの二階建て。子爵邸も同じだけど大きさが違う。正面もうちとは比べ物にならないほど広く、扉は馬車がそのまま入れそうなほど。横に目をやると小さな平屋が一棟。聞くと、礼拝堂だとか。さすが、伯爵様ともなるとお祈りもしに行くものではなく、家で済ませるものなのだ。
屋敷の裏には野菜畑や薬草畑があるらしい。
うちは敷地自体が狭く、こちらの庭園の位置に野菜畑や薬草畑がある。あとは申し訳程度の庭木がいくつか。噴水や礼拝堂は存在しない。
うん。悲しくなってきた。
「公爵邸なんかと比べると子どものお家だけど」
我が家は狭い、とナチュラルに言い放つマリエッテ様に身分差をありありと知る。でも、私はこれに慣れてはいけないな、と思った。確かに私は今から伯爵令嬢だけど、やがて伯爵閣下から婿を紹介され、元の子爵家に女子爵として戻るのだ。
とは言え、だ。環境がこれまでと違いすぎる。
お屋敷は広く、使われている物の材質は遥かによく、量も多い。置き場所を覚えるだけで大変だ。
使用人も多く、役割が細分化されている。例えば私につく侍女はこれまで三人くらいだったけど、三倍くらいになった。常についてくれる係から洗濯係に物品管理と身の回りのお世話係。これらの侍女をまとめあげ、管理する係。人が多すぎる。
食べ物や着る物、身の回りのものも、豪勢で、立派なものがたくさん。
この環境が、何年かは続くのだから、だめだと思っていてもそのうち慣れてしまいそうだった。これに慣れて子爵邸に戻るのは絶対に良くない。
とはいえ、否が応でもこの環境に放り込まれた以上、適応はしなければいけない。
そのため、私は自分付きの侍女長から伯爵家でのしきたりや、伯爵令嬢としての行儀作法などを教えてもらい、その合間には屋敷内をくまなく冒険して屋敷の構造や、使用人たちとも積極的に交流を持った。結果、春休み中が終わるころには屋敷中の使用人の顔と名前を一致させたのだから、よく頑張った。感動ものだと褒めてもらいたい。
いや、まぁ、それ以外にやることもなかったから、というのもある。お母様はほとんど子爵邸に戻って仕事をしていたし、他にやることと言えば子爵邸時代から仕えてくれている侍女のパウラと話をするくらい。春休みの課題? それは、かわいそうだけど犠牲になった。まぁ、頼りになる友人がいるので大丈夫だろう。多分。
そんなことよりマリエッテ様だ。
「あら、おはよう。ティネ」
ありがたくも親しげに愛称で呼んで下さるマリエッテ様を前にして、私は何日経っても下を向いたまま、まともに接することができなかった。
「お、おは、おはようご、ざいます……」
おかげでマリエッテ様の履物にだけは詳しくなった。嬉しくはない。
おどおど、ぼそぼその私に、マリエッテ様はどう思われているだろう。少なくとも、良い印象は持っていないはずだ。
最低限の挨拶をして、さっさと横を通り過ぎる私にいつまで優しく声をかけて下さることやら。
良くない。このままでは良くないことが起きるのは解っている。
でも。どうしてもマリエッテ様の、あの穏やかで慈しみ深い笑みを向けられると、花がしぼむかのように、私は下を向いてしまうのだ。
「――そらそうなるよ。だってティネは先輩のことをお義姉様と呼びたくないのだから」
学園の新学期が始まり、友人であるサーラ・ファン・アイルェンヴァウトに鋭く指摘された。彼女の下から突き刺されるような鋭い視線に少し圧倒される。
真剣な話をする際、彼女の垂れ目にはいつも冷静で知的な輝きが宿る。その柔らかそうな唇から紡ぎ出される言葉はだいたいの場合において正確で、一年間ともに過ごした経験から、私は彼女の判断をほぼ全面的に信頼していた。
今回も、マリエッテ様に自然に接することができないと相談すると、彼女は即座に的確な言葉を返してきた。さすが、私のことをよく理解している。その小柄な体は知恵で構成されているのだろう。羨ましいことだ。
お母様が再婚し、その嫁ぎ先がラーフェンスメール伯爵家だという話も、彼女を特に驚かせることはなかった。もう少し驚くかと思ったのに、期待外れだ。
そして私は、彼女の宿題を写させてもらっている。
「アンタはね、先輩を未だに家族ではなく、片思いの相手として見ているんだから、そういう態度になるのは当たり前」
先輩が在学中のことを思い出してみろと友人は言う。もし、在学中に話をする機会があったら?
課題を写す手を止め、虚空に視線を彷徨わせる。答えはすぐに出た。
「ああ……そうね。貴方が正しいわ」
きっと私は、モジモジ君になっていただろう。恥ずかしさが先に立って、どう接していいのか解らない。
「早く決めないと、ずっとこのままよ?」
「決める?」
サーラは耳際の後れ毛を耳にかき上げた。緑がかったグレーの瞳が私を見据える。
「諦めるか、諦めないか」
なるほど。その通りだ。私が恋心を捨てない限り、ずっとモジモジ君のままというのは解る。いつかは慣れるだろうけど、それまでに多分、色んなところがひどいことになっているはずだ。そこまで見通して、サーラは早く決めろと言っているのだろう。
「ちなみに、貴方ならどうする?」
「私? 私が、ティネの立場ならってこと?」
頷く。答えは決まりきっているのだろう。今更なにを、という意味の確認だ。
「さっさと諦める。諦めて、お義姉様〜ってじゃれつく」
即答だった。現実家の彼女に相応しい答えだと思った。
「それは、その……結ばれるはずがないから、代替手段として?」
義妹としてなら、堂々とじゃれつけるのは確かにそう。私が考える形で抱きつけないなら、せめて別の手段で抱きつこうってこと?
「違うわよ。もっと別の話」
「どういうこと?」
「現伯爵と将来の女伯爵の覚えをめでたくすることは、メリットしかないでしょ?」
「それは……まぁ」
今のまま行くと、いずれ無礼で失礼な娘として現伯爵閣下やその跡継ぎであるマリエッテ様から不興を買う未来は確実だ。
それを回避するには自分の心にケリを付けて、マリエッテ様を義姉として慕うことしかない。そうすれば伯爵閣下にも、マリエッテ様にも良い感情を持ってもらえる。義姉妹が仲良くするのはよいことなのだから。
「そうなるとね、伯爵閣下は貴方の婿探しに力が入るってものよ」
伯爵閣下は私の後ろ盾になって下さると明言された。でも、だからといってそれは必ずしも伯爵閣下が探しうる中で、最高の婿を連れてくることと同義ではない。この辺りは閣下の私に対する感情次第なのだ。
「ほぇぇ……」
「将来の女伯爵閣下もそう。貴方が子爵領の経営をミスった時、どれくらい援助してもらえるかは……」
「ああ……」
私への感情次第。
絶望したくなった。十七なんだからいい加減、大人になれということか。私のたるんだ精神を正すために神様がこんな仕打ちを考えたのか。
でもなぁ……。
「割り切ってお義姉様〜ってやった方がみんな優しい目でみてくれるわよ?」
「うぐぅ……」
私がマリエッテ様にじゃれつくのを誰も邪魔しない。悪く思わない。仲が良いと微笑ましく喜んでくれる。
「そうなんだけどさぁ……」
頭では正しいと解る。だけど……。
「心が納得しない?」
じっと見つめる優しい緑の目。導かれるように、頷く。
「なら、心の声に耳をすませなさい。どんな結果になろうとも、そっちの方が絶対に後悔しない。私は、その選択をこそ応援したい」
現実路線でも応援するけどね、と彼女は付け加えて微笑んだ。こんな、仕方ないなぁ、みたいな優しい笑顔もできるんだ。
「うまいこと言うものね。感動して泣きそうだわ」
あえて強がる。
「そりゃどうも。私は、詭弁という剣で相手を切り刻む家の生まれだからね。弁舌は得意よ」
彼女の家は代々外交官を排出する名家だ。
「さすがね。でもありがとう。もうちょっとがんばってみるよ」
「どういたしまして。それより早く写さないと、先生来ちゃうわよ?」
私は、深い悲しみに包まれた。
だいたい、日が沈む辺りに学園の一日は終わる。サーラは寄宿舎に入っているので、私はいつもひとり下校だ。馬車には乗るけどね。
伯爵邸に帰り着いて、左右に立つ門番さんに挨拶をする。門は石造りの枠に分厚い木の門だ。枠には装飾が付いていたり彫刻されていたりとさすが伯爵家。実家はただの木だったので、見るたびにすごいなと思う。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
どちらもが目尻を下げて頭を下げてくれる。受け入れてくれてるんだなとありがたく、嬉しく思う。
「どうぞ、ご案内いたします」
ヴィレムスさんが先導し、門を開けてくれる。そのまま彼の後をついて行く。
庭園には庭師さんが木の剪定をしていたのでこちらにも声をかけて通り過ぎる。ヴィレムスさんにお屋敷の扉を開けてもらい、中へ。
中に入ると侍女が出迎えてコートやカバンを持ってくれる。
これも、子爵邸のころには考えられないことだ。いやさすがに一般的な子爵家ともなれば荷物持ちくらいはいるだろうが、うちは自分でできることは自分でする、という教えの皮をかぶった経費削減によって、荷物持ちは存在しなかった。
まぁ、これも慣れていかなきゃな、とエントランスホールから階段を登って二階へ登ろうとしたとき、かすかに弦楽器の音が聞こえた。
「マリエッテお嬢様ですわ。ハープを弾いてらっしゃいますの」
階段の途中で足を止めた私に、荷物持ちの侍女が教えてくれる。
「へぇ……」
初めて知った。お母様の言う通り、やはり私は好きな人のことを何も知らないのだ。これから知っていけるだろうか。まともに話せない状況で。ちょっと不安だった。
とりあえず今、知っていることと言えばこの曲のことだけ。
昔の作曲家が作曲した、割と技術を要求される曲だ。少なくとも貴族のたしなみで習った程度では最後まで弾き通すことは難しいはず。
音を愉しむよりも、どきどきしながら聴いてしまう。だけど、少しだけ危ういところはありながらもなんとか最後まで行けて感動した。さすが私のマリエッテ様。
「……素晴らしいわ。さすがマリエッテ様。知ってる? この曲、すごく難しいのよ」
一呼吸してから、私は侍女に振り返り、大きめの声で褒めちぎる。本人に直接言えない分、世界中に先輩のすばらしさを伝えたかった。
「お嬢様、大声は少々……」
「あ……」
廊下を行く侍女が足を止めてこちらを見ていた。視線を移すと執事が扉から顔を出していた。やってしまった。ここは、子爵邸ではないのだ。
でも、こちらに向く視線のどれもが暖かいものであり、冷たいものはなかった。少なくとも見た限りは。
これは、私を受け入れてもらっていると考えていいのかな。そうだと嬉しいなと、早足で自室へ向かいつつ、そう思った。
自室に入ると、勢いよくベッドに飛び込む。
さきほど聴いたハープの音色がよみがえってきた。
技術的には、それなりに練習をされていることが解る。
しかし、語る音が気になった。
美しい音色は先輩の繊細さをよく表している。
繊細さと言うか、頼りなさ。
溺れている人が、必死に手を伸ばして何かを掴もうとしているような。
欲にまみれ、望みを叫んでいる。
そんな、到底、美しいとは言えない、音だった。
だから私は素晴らしい、としか言えなかった。
本来ならどんなところが素晴らしいとか、こんな風景が心に浮かんだとか、抽象的な言葉をつらつらと並べて先輩を褒め称えるべきところだったけど、そんな言葉がひとつも出てこないほどにひどかった。
もちろんこれは私の感想で、全くの見当違いかもしれない。
もしくは、私の好きな演奏の仕方じゃないなと感じて、それに正当性を持たせるために無意識下で考え出した感想なのかもしれない。
でも、私が学園で見ていた先輩の姿そのものだったから。
悲しい、寂しい、誰か助けてよ。私はここでがんばっているよ。
どこか暗い場所で、泣き叫んでいる。そんなイメージが浮かんで離れないのだ。
目で見て、耳で聴いた感想が同じなら、遠からずも近いものではないだろうか。
こんな思いなんてしたくない。
これじゃあ私が先輩を嫌っているようだ。
そうじゃない。
私も、同じだから。
同じだからこそ、大丈夫ですよって伝えたかったのだ。
そこにいるのを知っています。
がんばっているのを知っています。
だいすきです。マリエッテさま。
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