24 母の代償
悠馬はノックもなく分娩室へ駆け込んだ。一人の看護師が悠馬に駆け寄った。電話を掛けた看護師だとすぐにわかった。
「もう少しで出産です。真綾さん、今とてもがんばってらっしゃいますよ」
そこまで言って、彼女の声は低くなった。
「なんですが……今、かなり危険な状態です。赤ちゃんは順調なんですが、真綾さんの血圧がかなり高い状態で……降圧剤を投与しているんですが……」
押し殺したうめき声が叫び声に代わって部屋に響く。
「旦那さんが来ましたよ。頑張って!」
真綾の側に付き添っている助産師が励ます。叫び声が和らぐ。悠馬は無言でベッドに駆け寄った。固く瞑ったまま、時々しか開かない真綾の目を見つめながらも、とっさに握る手を探した。
「よくがんばった。もう少しだから。もう少しもう少しもう少し」
真綾の手を探しながらかける声は震えている。何度かの呼吸の後に真綾の目が開く。食いしばった歯の力は少しずつ緩み、唇がゆっくりと動く。悠馬は彼女の汗の匂いを、抱きしめるようにして思い切り息を吸い込んだ。
ようやく探し当てた彼女の手は熱かった。掌は汗で濡れていた。彼女は目を固く閉じ、悠馬の手を強く握り返した。
真綾は時々目を開けては固く閉じ、歯を食いしばる。呼吸で胸が波打つ。
「真綾」「がんばれ」「もう少し」「大丈夫」そんな決まりきった言葉で悠馬は彼女を励まし続けた。その繰り返しに終わりが来ることが悠馬には待ち遠しくも恐ろしくもあった。
悠馬がここにやって来てから何時間経った時だろうか。彼女と子供のためなら命を捧げてもいい。本気でそう思う瞬間が、ふと彼に訪れた。一生の中でなかなか起こることのなかった考え。どんな患者に接する時も、初めて真綾に出会った時ですら思うことのなかった気持ち。父親になることの意味に改めて胸を熱くした。
その瞬間、真綾が悠馬の手を振り払った。側にいた助産師が意を決した表情に切り替わったことに悠馬は気づいた。産まれてくるのが悠馬と真綾の子供であっても、どんなに悠馬が真綾に手をさしのべても、真綾の体の問題は、結局のところ彼女ただ一人の領域だった。
「悠馬」
彼を呼ぶ真綾の側に悠馬は顔を寄せた。彼女の荒い呼吸の谷が訪れると、お互いの鼻の先がかすかに触れた。
「もうちょっとだから、待っててね」
荒い呼吸にしては明瞭な声だった。悠馬は黙って頷いた。ずっと側にいてもよかった。だが、あえてそっと立ち上がり、真綾の側を離れた。助産師と主治医を信じて任せることも必要なことだと、自分も医師の一人として理解しているつもりだった。
それからは分娩台から少し離れた、彼女に視線の届く場所からずっと見守っていた。
二人の子供が誕生したのは、午前十時を過ぎた頃だった。主治医と助産師が励ます声と真綾の叫び声に、もう一つ新しい声が混じるのが、悠馬にもわかった。
「福田真綾さんおめでとうございます。元気な女の子ですよ」
はやる気持ちを抑えながら、助産師達の仕事を邪魔しないよう、一秒、一秒と真綾に駆け寄る瞬間を悠馬は伺った。深呼吸を繰り返す度、自分が昨日よりも大きくなったような気がした。
「おかあさんだよー」
真綾が女の子を胸に抱いた時、悠馬の足はもう動いていた。
「おとうさんだぞー」
「おとうさんだよー」
二人は泣き続ける女の子を交互に呼んだ。真綾の穏やかな視線に導かれ、悠馬は女の子をそっと抱いた。
「本当に産まれたね。すごいね」
真綾は穏やかな声で、それでいて、まるで子供がはしゃぐような言い方をした。
二人は父親と母親になったとは言え、まだ若い。悠馬は今年三十になってばかりだった。真綾の言葉を聞いた瞬間、たった二人でボートを漕いだまま大海原の真ん中に放り出されたような感覚が頭の中を走った。
「おめでとう。本当によくがんばったよ。頑張って二人で育てようね」
お互いを奮い立たせるように悠馬が声をかけると、真綾は黙って頷いた。口元は引き締まっている。毅然とした母親の覚悟を悠馬は読み取った。
女の子には産湯の温かさがまだ残っていた。小さい口から声を振り絞る姿が悠馬には改めて不思議だった。瞑ったままの目元は真綾によく似ていると思った。
「先生、みなさん、本当にありがとうございました」
悠馬は声を張り上げ、女の子を抱いたまま、その場にいる全てにお辞儀をした。
真綾は目を閉じていた。穏やかだった呼吸が再び乱れ始めた。悠馬は女の子をそっと渡そうとしたが、時々開ける目は視線がおぼつかなかった。側にいた看護師が女の子を預かった。
この部屋に入った時に看護師に言われたことを、悠馬は忘れていなかった。主治医が許す限り、悠馬は真綾の枕元に寄り添い、励まし続けた。杞憂であることを祈りながらも、彼女に最期が訪れる覚悟も持とうとした。しかし、できたことは、彼女の言葉を一言も漏らすまいとすることとと、励まし続けることだけだった。
真綾は次の朝を迎えることができなかった。
妊娠高血圧症候群による高血圧は出産後も続いた。投与し続けた降圧剤は効果を発揮しつつも、血圧の上昇はそれを上回った。
悠馬は彼女の最後の言葉を覚えている。
「ルカ」
そのたったの二音を、彼女は朦朧とした意識の中で発することを、必死に何度も試みた。
「子供の名前だね!」
ようやく意味を理解し、目を輝かせた悠馬の問い返しに、真綾は二度と言葉で応じることはなかった。ただゆっくり、かすかに首を動かしただけだった。
悠馬は迷わなかった。すぐに子供を瑠夏と名付けた。
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