3 夜のベランダ

 夏の終わりに残るようなかすかな甘い熱気を正行は思い出した。それは一週間ほど前のことだった。今の外の空気には、もうない。

 ベランダに閉め出された正行はガラス戸を叩きながら母親を呼び続けたが、無駄だった。母親はこちらを何度も振り返りながらも、部屋の向こう側に消えて行った。

 見捨てられたという気は起こらなかった。部屋の明かりはついたままだった。正行は両親が日頃からこまめに不要な照明を消していることを無意識の内に知っていた。

 ベランダに体育座りで座り込み、のどをしゃくりあげた。遠くで貨物列車の走る音が聞こえる。タタンタタンと規則正しく線路を鳴らしながら、音は次第に消えていく。

 立ち上がると目の前は暗闇だった。こんな時間にベランダからの景色を眺めたのは初めてだった。最後にこの場所に立った時は確か昼間で、背が届かなくて、手すりの向こうが見えなかったはずだった。

 今は背伸びをしなくても見える。それは新しい驚きだった。手すりに身を乗り出し、しばらく眺めていると、暗闇の中からじわじわと色が浮かび上がるのがわかった。左半分は土肌の中に転々と草木のようなものが植わっている。右半分は何台もの車が整然と並べられ、遠くの街灯がそれらの一部をかすかに冷たく照らしている。左半分と右半分はまっすぐ区切られている。その境目を、ベランダの遠く向こうから手前手前へと、正行はゆっくり辿った。

 境目はベランダの手前までも、まっすぐ続いていた。もしかして自宅を貫いているのだろうか。正行は心を躍らせた。ベランダの右角に回り込むと、境目は右隣の家と自宅を分けているのがわかった。ベランダの右角から見える真下の景色が、見える境目の最後だった。

 もう一度境目を逆に辿ろうとした時だった。

「なにしてるの」

 聞こえたのはベランダの外からだった。父親でも母親でもない。

「だれ?」

 顔を上げて思わず問い返した。どこにいるんだろう? 周囲を見回したが見つからない。

「ここにいるよ。なにしてるの」

 正行が立っている真正面だった。隣の家のベランダに、青峯瑠夏はこちらを向いて立っていた。

「だれ?」

「わたし、るかってゆうの。なんでないてたの」

 こんな子はいただろうか。正行は通っている小学校の同級生の顔を思い浮かべたが、誰とも一致しなかった。背の高さは同じ位に見えるが、同級生の女の子達よりも少しだけ大人びて見える。瑠夏の目元は正行の同級生達にはない落ち着きをたたえていた。それは冷たい心とか無気力などとも違う種類のものだった。誰を傷つけることも馬鹿にすることもない、誰に対しても怒りを持たない。正行にとって、そう直感させる何かだった。

「おとうさんにおこられたの。そとに出されて入れないの……」

 そこまで答えて、改めて自分の置かれた立場を思い返した。どうやって部屋に戻ればいいんだろう。再び涙があふれ始めた。顔が熱くなり、鼻水が止まらない。

「きっと開けてくれるよ。だいじょうぶだよ」

「だって、おかあさんよんでもきてくれないし……」

「じゃあ……」

 うつむきながら顔の涙を両手の甲でぬぐう。 

「あけてくれるまでわたしもいっしょにいるね。だからへいきだよ」

 その言葉で瞬時に顔を上げた。瑠夏は正行を見て笑っている。

「おともだちになってくれるの」

 思わず早口で問いかけると、少しの間も空くことなく、瑠夏は大きくうなずいた。正行の顔がぱっと明るくなった。

「ねえ、なにくんっていうの?」

「まさゆき。るかちゃんはなんねんせい? ようちえん?」

「一年生だよ」

「うそ。ぼくも一年生だよ。でも学校でみたことないよ」

「ちがう学校なの」

 子供達がお互い近くに住んでいても、通う学校が別れることがあるのを、瑠夏は知っていた。

「るかちゃんの学校はどっち?」

「あっち!」

 正行に背を向け、ベランダのさらに右の方を瑠夏は指で示した。

「ぼくの学校はあっち」

 正行は瑠夏の顔を見ながら、左手をベランダの左端に向けて示した。

「すごーい。あっちのほう、わたしいったことないのー」

「ぼくだってあっちのほう、いったことないよー」

「いってみたいなあ。つれてって」

「うんいいよ」

「やくそくだよ」

「うん。でも……」

 ベランダ越しに向き合う瑠夏の姿が、正行には一瞬かすかに明るく浮かび上がったような気がした。

「でも……おとうさんとおかあさんにしかられないの?」

 正行が尋ねると、瑠夏はベランダの手すりから体を伏せた。姿は見えない。

「あれ? ねえ、いないの?」

 手すりの下から瑠夏がそっと顔をのぞかせ、満面の笑みをたたえて囁いた。

「じゃあまたね、バイバイ」

 手すりに写る自分の影がさっきよりも鮮明になっていることに正行は気づいた。

 振り返ると母親が窓を開けて待っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る